下絵か模本か

山本陽子さんの「京都市立芸術大学所蔵「平家物語絵巻」粉本について」(「説話文学研究」52)を読みました。従来、絵巻制作のための下絵とされてきた京都市芸大蔵「平家物語絵巻」が、じつは下絵でなく、静嘉堂美術館・京博などに分蔵される白描の平家物語小絵巻の(現存しない)巻12を透き写しにしたものであろうと結論づける、意欲的な論文です。画像をデジタルで重ねたりひっくり返したりできるようになって、考証作業が容易になったことが幸いしています。仮説としては大いにあり得ることだと思います。

ただ、口頭発表の際にも、基本的な細部の詰めがちょっと危なっかしく思われた点がいくつかあり、そもそもこの「模本」の制作年代はいつ頃なのか、分かる範囲で示しておくべきでしょう。例えば口頭発表時に指摘された、清盛を迎えに来る地獄の車の図は『平家物語図会』や版本挿絵にはあるので一概に珍しいとは言えないこと、また底本とされた平家物語本文は整版本(流布本)か覚一本や京師本・葉子十行本なのか(巻12の記事の多寡が違う)は、制作年代と関わってくるからです。

殊に後者は、模本がいう「さうし」は、多分平家物語本文のことであろうと考えられるので、重要です。恐らく、白描小絵巻(伝光信本)の方は画工の創意(または独善)による本文離れがあるのに、模写する際には本文を規範として参照し校訂しようという意識があったのではないでしょうか。

林原美術館蔵の平家物語絵巻が量的にも質的にも有名ではありますが、平家物語の絵画資料はあれだけでなく、また絵巻形態だけを基準に考えるべきでもないと思います。白描小絵巻は美術的にも優れたもの(だと私は思っています)ですので、もし山本さんの想定のように十二巻揃だったとすれば(厖大な分量になるはず)、誰が作らせたのかも気になります。文学と絵画資料との関係は未開の沃野ともいうべき分野で、方法論も手探りするしかないのが実状ですが、細部にも注意を怠らず、いろいろな角度からの試みが必要なのではないでしょうか。