中国史における「中領域」

東洋史の平㔟隆郎さんからメールを貰いました。

 「難しいあなたの著書論文を、出版社の宣伝と違って、やさしい説明にしてまとめてください」と大学の担当者から依頼がありました。無理難題を自覚しつつ少しだけ工夫して、「戦後60年代ぐらいに、日本の歴史的発展と西洋の歴史的発展が似ていることに興味をもった人」向けに書いてみました。

  http://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/search.php?q=&department=%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80&issued_year=

 日本は、中領域を統合した後、律令時代に入り、やがてそれが瓦解していきます。それを再度統合したのが江戸時代で、実質、北海道から沖縄までの大領域を相手にしていきます。鎖国はしていても、沖縄を通して海域と繋がっています。中国は、2000年の大領域が前提で歴史を語りますが、実は中領域も生きています。その中領域を見るように注意してみると、日本で当たり前のように議論されている中世の諸問題なども、中国の場なりに見えてくるんじゃないか、というような文章が本当は書きたかったのです。

 

上記のURLは大著『「八紘」とは何か』(汲古書院 2012)についての紹介記事です。平㔟さんは『史記』や『春秋』の戦闘的な研究で有名な人ですが、史書の編年の誤り・虚構の発生については、日本中世の軍記物語にも通用するところがあり、かつて『類聚国史』の編纂方法に関する益田宗さんの論文を通して問題意識を共有しました。

続編『「仁」の原義と古代の数理』(雄山閣 2016)と併せると3kgもある(!)大著(しかも漢字はすべて正字体)ですので拾い読みですが、幾つも蒙を啓かれました。鳥取安徳天皇墓と伝承されている石灯籠の正体を解明したり、大名墓地に多い亀形の台座を調べたりしていたのは、こういう風に巨大なテーマにつながっていたのか!と、感嘆しています。殊に漢字の意味が中国において時代と共に変化していることが無視されている、との指摘は我々にとって重大でしょう。