日常から

終戦記念日に合わせてさまざまなドキュメント番組や特集記事が眼に入って来ます。軍部の暴走や判断ミス、それに無責任に乗っかって煽る人々―ちょっと待って、プレイバック!と思わず言いたくなるような既視感に襲われることしばしばでした。職場の会議からマンション管理組合まで、あれとそっくりな局面を度々見てきました。

勢いのいい演説をぶつが、現場での面倒なことはすべて、下っ端や女性に押しつける所存でいるオジサンたち。根拠のない自信を実証しようとして無謀な提案を出し、慎重論に向かっては精神主義をぶち上げる輩。非効率的、不合理な企画を案出する指導者を、何故か可愛がる権力者。そして彼等にすり寄り、あるいは忖度して我が身の保身に汲々(見返りが得られればもっといい)とする多数派の人たち。

戦争は悪玉がとつぜん始めるのではなく、日常の中で「善人」が手を抜いた結果の積み重ねではないでしょうか。むやみな一体感や昂揚をもとになされる呼びかけには、警戒と細部の問いただしが必要です。

加藤陽子さんの『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)は出た当初から評判になりましたが、お奨めの書です。殊に中高の教員には必読。こういう授業をできる加藤さんが、そして生徒が羨ましい気がしますが、各自の持ち場に合わせて試行するしかないでしょう。同じ著者の『戦争まで』(朝日出版社)もあります。

文学者としては―太宰治の「富岳百景」にある「富士には月見草がよく似合ふ。」という言葉は有名ですが、富士山の麓に可憐な月見草が咲いているのをこちら側から眺めた風景ではないことをご存じですか。みんなが大きなもの、堂々としたものに一斉に感嘆している時、反対側をふり返ってみたら、1本の月見草がすっくと立って、決して雄峰富士に負けていなかった、という情景なのです。空気を読んでも一歩ひく、ひいて心中考える、それが文学者らしい日常ではないでしょうか。