家ごとの「さきの大戦」・湘南海岸篇

幼年時代茅ヶ崎で過ごしました。未だサザンもサーフィンもない頃です。陸には甘藷畑と麦、ようやく陸稲が普及し始めた頃でした。海岸は未だ何もない砂浜で、松の植林が少しずつ始まっていました。戦争末期に、ガソリンの代用品として松根から油を採るため、砂防林の大半が伐採されてしまったからです。15cmくらいだった苗が今は密林になっているのを、正月の箱根駅伝のTV中継で視ると感無量です。

海岸線から道路1本入った、まばらな松林の中には、あちこちにト―チカが残っていました。上陸してくる敵を防ぐために軍が造った、セメントのかまくらのようなものです。大人が3人も入ったらはみ出てしまいそうでした。子どもたちは、「崩れると危ないから決して入ってはいけない」と言い聞かされていましたが、ときどき入って遊びました。でも何となくうしろめたさを感じました。軍関係のものに言及するときの大人たちの不吉な様子が、理解出来ないながらも憚られたからです。

海岸線の東続きに辻堂の米軍演習場があって、毎日決まって2時間くらい大砲の音が続きました。烏帽子岩を標的にしているとかで、何だか少しずつ岩の頭が低くなっていくような気がしました。空を飛ぶのは米軍の飛行機とヘリだけで、「あれはどこの飛行機?」と何気なく訊いたら、「日本にはいま飛行機はない」と答えた父の声が、いま思い出しても寂しそうでした。

休日に海岸を散歩している私たちの脇を、サイレンを鳴らしながら黒塗りの車が猛スピードで走り抜け、あっと言う間に小さくなりました。見送りながら「総理の車だ」と父が呟いたので、吃驚しました。吉田茂邸は大磯にあって、当時はノンストップの公用車で通っていたのです。