戦争体験

軍記・語り物研究会はもとは軍記物談話会という名でした。私よりも8年くらい上に、後に軍記物研究の錚錚たるメンバーになった人たちが何人もいて、新人の勉強会として手弁当で始めた会です。私は卒論を書いている時に、指導教授から先輩を紹介されて入ったのですが、その先輩(女性)は私の顔さえ見れば(いや、電話でも)、「私たちは戦争を体験しているから、貴女たちとは違うのよ」と言うのでした。あまりに人格否定的に言われるのでどうしていいのか分からず、我が家での戦争体験者である父に、このことを話しました。一瞬、間があって、日頃は柔和な父がきっとした口調になり「すると何か、お前たちの研究会はもう一度戦争をしようという会なのか」と言うのです。返事に窮していると、叱るように、「戦地ではもう駄目だという経験を何度もした。しかし自分はそれらを戦争体験だとは思っていない。もう駄目だ、と思うような局面はどこにいてもある。戦争体験というのは、相手を殺さなければ自分が死ぬ、という状況で決断を下した経験のことだ」と言いました。

彼が従軍したのは昭和13年から4年間、中国の武漢へ会計少尉としてでした。未だ国内は好況で、多くの人には戦争はよそごとだったかも知れません。しかし、日本軍の装備が貧弱で、命からがら死地を脱したことが1度ならずあったらしい。その中から話してくれたのは、次のような話でした。

あるとき、軍曹と年配の二等兵と、3人で見回りに出かけたところ、何だか様子がおかしい。どうやらゲリラに囲まれたらしく、とりあえず井戸の陰に隠れたが、ゲリラはじりじりと間合いを詰めてくる。将校に持たされている拳銃を抜いて構えたら、軍曹(たたき上げの職業軍人です)が、「少尉殿、安全装置、安全装置」と言う。あがっていたので安全装置を外すのを忘れていたのだ・・・暫くにらみ合いが続いたが、そのうちゲリラたちが退いて行った。ふと気づくと二等兵がいない。引き返してみたら、腰を抜かして失禁していた。軍曹と2人で二等兵を肩にかけて陣地へ帰った。あの二等兵も内地では仕立屋の主人で、立派に一家の主だったのだが、牛蒡剣1本しか持たされていないのだから無理もない。きっとゲリラたちは僕らの様子を見て、こんな者を相手にしてもしょうがないと思ったのだろう。

私は返す言葉がありませんでした。常日頃、臆病で弱虫だと思っていた父がそんな体験をしていたとは。当時の彼は30歳になるかならぬかだったはずです。3人の男たちの年齢、経験、立場の違いがみごとに出ている話でした。同時に生身の人間が経験する戦争というものが、決して勇壮でも堂々たるものでもないことが分かりました。

爾来、あの先輩を学問的には尊敬しても、社会的判断や意見については、お相手しないことにしました。彼女の言う戦争体験とは、詳しく聞くと、学童疎開先で教師が食料をくすねたとか、七輪で火をおこせるとかいうことだったようです。来週には旧軍記物談話会、現軍記・語り物研究会の56年目の大会が開かれます。