大学教育の実用化

必要があって、日比義高さんの『いま、大学で何が起こっているのか』(ひつじ書房)を取り寄せて読みました。ブログから生まれた本だそうです。

 平成3年の大学設置基準大綱化の時、私は未だ現役でしたがちょうど転任したので、押し寄せる激浪の中で揉まれながらも執行部員としての役務は担いませんでした。あの時、大学に資本主義の競争原理が持ち込まれ、以後の大学のあり方を根本から変えたのだということを、どれだけの大学教員が自覚しているでしょうか。現在中堅の大学人たちもひょっとして、自分が学生だった頃の大学と同じような心算で大学の位置づけをしてはいないかー杞憂であればと思います。

私たちが学生だった頃にも文学部不用論はありました。雑談好きの教師が講義中に「無用の用」論、つまり田圃の畔で米は作れないが畔がなければ稲は育てられない、とぶったことを覚えています。しかし「大綱化」以来、大学は官立私立を問わず経営自立を求められ、つまり高等教育は国家の保護から殆ど疎外された(管理はむしろきつくなっている)のです。にも拘わらずあれこれ国から要求や規制がある(補助金や認可の問題ゆえに)のが難儀で、各大学はそれぞれに智恵を絞っているわけでしょう。

ひところ、大学の大衆化=大学教育の水準低下が騒がれた時期がありました。もう忘れられるほど大昔でしょうか。大学進学率が上がり、いっぽう少子化で大学全入が現実に近くなり、大学では何を学ぶのかが曖昧になって、しかもそのこと自体も認識されなくなっているような気がします。食えるために、一人前の社会人になるためには大学へ行く必要があるのだろうか?職業教育が大学の使命なのだろうか?そこから議論してなお、「無用の用」を主張できるか。考えてみたいと思います。

名古屋で勤務した大学にはこういう話が伝えられていました―家政学から出発したその大学が文学部を設置するとき、やはり文学が何の役に立つのかという反対論が強く、当時の学長は理系の学者でしたが、「文学部があると大学に品格が出る」と言い切って、申請に踏み切った由です。