寿永3年(1184)2月、一の谷合戦で多くの平家公達が討たれた中、重衡のみが生け捕られ、都大路を渡されます。人々は、南都(奈良の寺々)を焼き討ちした罰だと噂しあいます。 【西八条第跡(清盛邸)】 重衡は、清盛・時子の愛息でした。後白河法皇は、重衡…
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