クルーズ

1966年の正月は洋上で迎えました。当時、日本産業巡航見本市というプロジェクトがあり、各地で日本の工業製品や機械を展示して、輸出を促進する船があったのです。その年は東南アジアで、派遣団長の1人に父が当たり、接待役が必要なので私が同行しました。未だ学生だからということで、振袖を着てにこにこしていれば周囲が助けてくれて務まったのですが、私にはその後の世界観に影響するほどの貴重な体験でした。

団長は3人交代で、私たちが務めたのは印度のコチン、ボンベイ(今のムンバイ)、カルカッタ、そしてマレーシアとシンガポール、約1ヶ月の船旅でした。1万2千トンの船底に展示会場を設け、開場式や現地の記者会見、地元の経済関係者との懇談などが私たちの役目です。商談が行われている間は暇なので、上陸して日本から来ている商社マンや友好協会の人たちに会うのですが、当時の印度は未だ衛生状態が悪く、決して生水を飲んではいけない、と言われました。

殊にボンベイでは赤痢が多いということで、船長が厳重に申し渡したのは、なるべく陸上で物を食べないこと、生ものは以ての外、帰船する際には手を消毒すること、でした。商船三井から来た船長で、大柄で威厳もありました。でも安全な日本から来た私たちは、神経質だなあと思ったくらいで、すでに決められていた招待に応じて、内陸の日本人農場を訪ねました。日本米の生産に成功したばかりとかで、生海老を載せたにぎり寿司がバナナの葉に盛って出されました。自慢の寿司です。断るわけにはいきません。まさに新鮮そのものの食材、今でもあれは、生涯で食べた、最も美味しい寿司でした。

勿論、帰船しても内緒です。消毒液で丁寧に手を洗っただけ。今思うと、船長の心配がよく分かります。船上では1人が感染症に罹ったら、全員逃げ場がない。ゴメンナサイ。

東国から王城へ

軍記物語講座第1巻『武者の世が始まる』(花鳥社)が出ました。中世の軍記文学の魁といわれる『将門記』『陸奥話記』『後三年記』、『保元物語』『平治物語』、そして武士政権優位が確実になった承久の乱を描く『承久記』を論じる15本の論文と、軍記物語年表の前半が収載されています。詳しい目次は、花鳥社のHPに載っています。

軍記物語といえば『平家物語』がまず連想されるでしょうが、じつは『平家物語』はこのジャンルの中でやや特異な存在です。それは本書に並ぶ、10~13世紀成立の軍記物語、また第3巻『平和の世は来るか』で取り上げた『太平記』を見比べると納得できるでしょう。それぞれに個性の強い作品が、個性の鮮明な研究者たちによって論じられています。方法も見通しもさまざまで、国文学研究の面白さを1冊で体験することができます。各々が現在の研究の最前線ですが、中には従来の研究への痛烈な批判をはらんでいるものもあり、今後の展開が楽しみです。

表紙カバーには、秋の般若寺、伊吹山裾野の冬景色、ビル街の中に建つ将門首塚、夏の後三年合戦場跡、それに雪の鶴岡八幡宮の写真をデザインして貰いました(それぞれ『保元物語』『平治物語』『将門記』『後三年記』、そして『承久記』の重要な場面に因んだもの)。ちょっと帯を外して眺めてみてください。軍記物語が現代の我々を惹きつける理由の1つに、各地に残る伝承や遺跡に対する親近感があると考えたからです。

本書の「しおり」は豪華版です。渡邊裕美子さんの「みちのくの和歌」、中村文さんの「頼政の恋歌一首」、堀川貴司さんの「和漢混淆文をどう見るか」の3篇が詰め込んであって、これだけでブックレットになりそう。

軍記物語を学ぼうとすると、文学、歴史学だけでなく宗教や美術、民俗など幅広い分野に関わっていくことになります。やってみませんか。

池袋

池袋のユザワヤにボタンを買いに出かけました。スーツの前ボタンがなくなっているのに気づき、金属の飾りボタンなので代用品がなく、ユザワヤで探すことにしたのです。駅前からはちょっと見えにくいビルの3階にあるので、ブロックの3辺を回ったりしてたどり着きました。

入り口には色とりどりの毛糸の玉が積まれ、女性たちがあれこれ品定めしています。バレンタインも近いことだし・・・思い出したのはその昔、デート中に店頭のマフラーを見ては、手編みのマフラーを贈ってくれた彼女の話をしたがった(卑怯な挑発ですよね)男のこと。馬鹿馬鹿しいので、寒いの?じゃ貸してあげよっか?と私の巻いていたマフラーに手をかけて防戦しました(勿論、その男とはすぐ別れました)。

ボタンはすぐ見つかり、ついでに安売りのソックスを買って、デパ地下へ下りました。ハートマークを掲げたチョコレート売り場を抜けて、惣菜の売り場へ入ると、眩しいほど色つやのよい料理が山盛りになっています。奥へ行くほど豪華な(値段も高い)、美味しそうな品が誘惑的に輝いている。盆花を採りに行って山姥の小屋におびき寄せられた小僧の話を連想しました。最近枯れてきて、食欲も減少したなあと思っていましたが、こんなに贅沢な品揃えを見せられると、もりもり食欲が湧いてきます。

鰤と根菜の照り煮、茄子と長芋のマリネ、鰯のエスカベーシュ、アボガドサラダ、と一通り揃ったところで、雲丹とアスパラガスのムースを見つけ、衝動買いしました。世は新型ウィルス蔓延で大騒ぎですが、現役世代はじっと閉じ籠もってはいられない。もはや国内でも、ウィルスに触れずに暮らすことは幻想に過ぎません。美味しい物を食べて、談笑して、免疫力を高めて切り抜けるしかないでしょう。

風月同天

「山川異域 風月同天」という詩句を救援物資のラベルに書き添えて、湖北省の高校に送った日本青少年育成協議会の快挙が話題になっています。中国語検定試験などを行っている団体なのだそうで、調べてみると、以前から、この団体主催のイベントのポスターなどにも印刷していたらしい。殆ど社是のようなものだったのかもしれませんが、今の状況でこのように使われると、まさに衝撃力は大です。

短い詩句であること、単刀直入にラベルの隅に(発信人名のように)印刷されていたことも、印象を強めた理由でしょう。漢字は1字1語ですが、その中に意味が凝縮されていて、直撃力が半端でない。和漢混淆文の代表とされる『平家物語』の文体の妙味は、漢語と歌語、日付や数字・人名などの記録語の配置にあると、私は思っています。

高校の漢文の授業が退屈だったので真面目に勉強せず、漢文には何となく苦手意識があるのですが、それでも不意に、「二千里外故人の心」とか「水村山郭酒旗の風」とか、風物に応じて口中に飛び出してくることがあります。何故か和歌よりも詩の一節であることが多い(和歌を専門にしている人は逆かもしれませんが)。『和漢朗詠集』を仕事でなく読書として読むと、印象に残るのはやはり漢詩の1節で、和歌はオプションのような気がしてしまいます。

上記の詩句は、そのまま現在の彼国の人々へのメッセージになっていますが、じつはその背後に1300年も前、長屋王の要請に応えて命を賭けて渡日した鑑真和上の逸話が控えていて、そのことを想うと、彼我の長い歴史の重みがさらに迫ってきます。これが古典だ!と思うと同時に、ふと彼国では、誰もがこの詩句を読めるような古典教育が普及しているのだろうかとも思ったことでした。

太平記の構想論

大森北義さんから手紙が来ました。『平和の世は来るかー太平記』(2019 花鳥社)に構想論を書いて貰うはずだったのですが、血流の病気で倒れ、締切に間に合わず、まえがきで小秋元段さんがそのことに触れています。入院先からの電話でも、書きたいことがある、と熱く語っていました。『太平記』の序の思想とその後の内容との関わりについて、ずっと考えてきたが、30年かかってようやくこの頃、「太平記が見えてきた」とのこと。私たちもその先が知りたいので、単著を出すようお勧めしておいたのです。版元も決まりました。許諾を得て、手紙の一部を引用します。

[軍記物語講座第3巻『平和の世は来るか』は、専論がそれぞれに深く広くなっており、いろいろと教えられました。その1つは君嶋亜紀「南朝歌壇と『太平記』」の提言(p118)で、「『新葉集』がなければ南朝の人々の造型はもっとやせ細ったものになっていただろう」「古来の価値観が崩壊し多様化したこの時代の人々の思いを多角的に捉えていく」という辺りに共感しました。

2つ目は、呉座雄一「南北朝内乱と『太平記』史観」です。私は呉座氏の論(p225)とは異なる見解を持ちますが、p227「〈王権への反逆者の物語〉という『太平記』当初の構想が、私たちの歴史認識を規定してきた」と、『太平記』史観の根底に『太平記』当初の構想があったとするのは、『太平記』研究者の発言の仕方に問題があったと感じており、詳細は今準備している論文で論じるつもりです。

単著の準備ですが、少しずつ旧稿に筆を入れており、今年いっぱいで何とか仕上げる積もりです。古い考えは捨て、新しい考えで〈『太平記』の文学〉を論じ、新論も加えて新たな地平を示すことができればよいがと思っています。(大森北義)]

楽しみにお待ちしたいと思います。

2020年度人文系大学院生奨学金

公益信託松尾金藏記念奨学基金(2020年度)の募集が始まりました。大学推薦ですので、この4月から文系の大学院に入学する予定で応募を希望する方は、所属先の大学院事務室へお問い合わせ下さい。書類の提出先や締め切り日は、大学ごとに設定されていますので注意して下さい。
地域と専門分野に限定があります。給付型の奨学金ですが、1年ごとに継続審査が行われます。他の奨学金との二重受給はできません(貸与型でも不可)。詳細は三菱UFJ信託銀行のHPに掲載されており、募集要項や応募書類の様式も載っています。
基金は2003年以来、すでに160人以上の院生を支援し、修了者は研究者や社会人として活躍しています。日本学術振興会特別研究員に採択される人も少なくありません。例年、進学の目的や研究計画などについて、高水準の審査を経て、10名前後の採択が決まり、6月中には本人に通知されます。

今までの成果は、論集『明日へ翔ぶー人文社会学の新視点ー』(第1~4巻風間書房刊。この3月に第5巻が刊行予定)と題して出版され、募集先の各大学に寄贈されていますので参照できます。
なお修了者による任意の同窓会「明翔会」があり、研究成果報告会などを行っています。本年3月14日には第3回研究報告会が開催予定(一般の来聴歓迎)です。プログラムなどは本ブログのお知らせカテゴリーをご覧下さい。

源平の人々に出会う旅 第37回「紀州・横笛」

 元暦元年(1184)3月、高野山に入った平維盛が訪ねたのは滝口入道でした。滝口入道は、かつて小松殿(維盛の父・重盛の館)に出仕する斉藤時頼という侍でした。時頼は建礼門院に仕える横笛と恋仲になりました。この話は『平家物語』の諸本によって差異があります。

【横笛の恋塚】
 父に二人の仲を反対された時頼は、横笛に黙って嵯峨で出家してしまいます。覚一本では、横笛は時頼に会うことが叶わず、時頼が高野山に移った後に出家しますが、まもなく奈良で死去します。延慶本や『源平盛衰記』では、横笛は入水しますが、『盛衰記』には異説も載せられ、出家した横笛は、高野山の麓の天野(かつらぎ町)に移り、瀧口入道を世話したとしています。天野の地には、横笛の恋塚があります。

f:id:mamedlit:20200203113231j:plain

 

高野山別格本山 大圓院】
 なお、高野山・大圓院の寺伝によると、横笛の死後、瀧口入道は多聞院(現・大圓院)の第八世住職になったとされています。

f:id:mamedlit:20200203113339j:plain

 

【鶯の井戸(大圓院)】
 大圓院での修行中、滝口入道は古梅に止まる鶯を見つけます。ところが、鶯は枝から飛び立つや否や、脇にあった井戸に落ちてしまいます。その鶯は、横笛の化身であったとされ、境内には「鶯の井戸」「鶯の梅」が残されています。

f:id:mamedlit:20200203113538j:plain


【有王の墓】
 「横笛の恋塚」の近くには、有王の墓もあります。『盛衰記』では、鬼界ヶ島で俊寛を看取った有王は、出家して俊寛の骨を高野山に納め後世を弔います。俊寛の娘は女人禁制の高野山には入れず、天野で出家しました。天野の地には、西行の妻娘の墓や、『曽我物語』の鬼王・団三郎の墓などもあります。

f:id:mamedlit:20200203113645j:plain


〈交通〉
 大圓院…南海高野山ケーブル高野山
 天野…JR和歌山線笠田駅
                (伊藤悦子)