揚羽の蛹

午前中から、眼科の定期検診に出かけました。受診は1時間半くらいで終わったのですが、会計が混んでいて、正午までかかりました。3年前にここで消化器の大手術をした長野の友人が、付き添いの妹さんと共に上京、午後から主治医の診察を受けるというので、待ち合わせて一緒に昼食を摂りました。

友人は、術後は順調だが時々低血糖症になり、角砂糖を囓ると言うので、東大生が愛用するブドウ糖のお勧めから始まって、よもやまの話をしました。関電の大収賄(¥50万もする男物の背広ってどんな物?)、大学入試や古典教育の改悪(大学に入るのに英語を話す能力は要らない、近世文法からでは日本語の仕組みは解らない)、最近のイベント続き(ラグビーは反則の多い競技なんだね)、政治家の英語能力(小泉進次郎の英語より河野太郎の方がいい、海外の記者会見でgottaというような言い回しを使うことがそもそも問題)など。たわいもない話ですが、互いに共通理解の基盤があるので、のびのびとお喋りしました。年を取ると、こういう目的のない会話の時間が貴重になるのです。

妹さんは地元の文化財保護の傍ら、植木鉢についた黒揚羽の幼虫を大事に育てて孵化を楽しみにしているとのこと。夜は室内に取り込み、グレープフルーツの種を蒔いて出た芽を、餌にやったそうです。別れ際にケータイに入れた写真を見せてくれました。まるまると太った蛹が2匹、緑色につやつやと光っています。一瞬、私は雀の眼になり、「うまそうだな」と思ってしまいました。ゴメンナサイ。

帰宅しても瞳孔が開いている間は仕事にならないので、給水公園に寄りました。蔓薔薇は台風で傷んでいましたが、白いスノーバーグ、カトリーヌドヌーブやマリアカラスやチャールストンなどの賑やかな色彩が、ぼやけながらも楽しめました。

台所用洗剤

親の家に残っていた古い台所用洗剤を使ったら、久しぶりに主婦性湿疹が出ました。我が家は欠けやすい陶器が多いので、家事用手袋は使いません。しかしひび割れが痛い程になってきたので、思い切り薄めて使うことにし、当座の問題は解決しました。

台所用洗剤が普及し始めた昭和30年代後半、洗い物が容易になったのが嬉しくて、苺まで洗剤で洗ったものでした。家庭料理にも炒め物が増えた時代です。主婦性湿疹がひどくなり、手の皮はぼろぼろに剝け、でも対処法が分からぬまま使っていました。

昭和40年代後半、長門本平家物語の書誌調査で全国を歩いていた頃、たしか山陽地方の列車のボックス席で、中間管理職世代の男性と乗り合わせました。大人ですがどこか弱気に見えました。互いに、どこまで行くのかといった会話を交わした後、男性は、出張の帰り、用務を済まして半日観光した先で、大事な報告書を失くしたと打ち明けました。誰かに言わずにはおれなかったのでしょう。私は、だいじょうぶ、きっと誰かが拾ってくれますよ、と言いました(そう言うしかない)。じっさい、学生時代に九州一周旅行をした時、周遊券を落とし、観光船の事務所が次のJR下車駅まで届けてくれた経験があったので、その話をしました。男性は明らかにほっとし、ふと私の掌を見て、どうしたのかと訊き、台所用洗剤でこうなったのだと言うと、衝撃を受けたらしくて考え込みました。洗剤会社の人だったのです。

半世紀近く前の話です。現在の洗剤はずっとマイルドになりました。あのおじさんはどうなったでしょうか。大事な報告書を疎かにして出張先で遊んだ、と出世をふいにしたか、ぶじ書類が戻ってきたか。もう在世ではないかもしれません。でも多分、社に帰って、開発部門に主婦性湿疹の研究推進を提案した、と私は信じています。

サバイバル

漆工芸作家の藤澤保子さんから手紙が来ました。木地捜しから造形、漆塗り、蒔絵まで一貫してやっている人です。中学時代の同級生。体の弱かった2人は、体育の見学仲間でもありました。女の子にありがちな虚勢やそねみのない、気持ちよく話せる人だったことを、60年経った今でも覚えています。

国文学研究資料館から東京芸大所蔵の音楽・語り物関係の文献調査を命ぜられ、疲れきって上野公園を横切ろうとしていた時、不意に呼び止められ、それが中学卒業以来30年ぶりの再会でした。昨年、船橋で、漆塗りの工程を展示する「藤澤保子うるし美術館」を開いたことは、このブログでも紹介しましたが、目下、3回目の展示替えをしているとのこと。南房総にあった工房が台風15号で被害を受けて機能しなくなり、混乱しているが、2~3年かけて整備するつもり、「サバイバルに強くなりました」と手紙にはありました。

モダンだけど典雅な作風。ゆるやかな曲線の木匙は、中学の美術用教科書にも載っているそうです。きっと外国人や子供たちにも、漆工芸のことを丁寧に説明してくれると思います。お問い合わせは yskfujisawa@gmail.com まで。

塩害

洋梨を煮ました。仏壇に上げていたものを、もういいだろうと剝いてみたら、半分は包丁が立たないほど堅い。やむなくざくざく切って、シーバス・リーガル(英国人と結婚している従妹のお土産です。我が家に残った、最後の強い酒)少々と砂糖6gを入れ、ひたひたの水を差して、透き通るまで煮ました。シナモンを振り、冷やしておやつに食べてみたのですが、煮ても未だ堅い。

どうも先日の台風15号の影響が、スーパーの仕入れる野菜果物にも及んでいるようなのです。柿は未だ青いうちに採ったものが店頭に出ているし、この洋梨も熟すのに時間がかかりすぎています。逆に、トマトを買って冷蔵庫に入れておいたら2,3日で傷み始め、6個ともざく切りにして鶏とキャベツのスープで煮込みました(これはこれで美味しかった)。多分、収穫前に葉や茎とこすれ合って、目に見えない傷がたくさんついていたのでしょう。

我が家の素馨や菊は、葉が銅色になって醜く枯れ始めました。並木の塩害と同じ症状です。洗うわけにもいかず、手を拱いて眺めています。来年に備えて、何かしてやれることはないのか。今日もまた、遠くで熱帯性低気圧になった台風の余波で、眩しく熱い南の風が、家中を砂埃でざらざらにしています。

源平の人々に出会う旅 第33回「神戸市・小宰相と通盛」

 寿永3年(1184)年2月、一の谷合戦で多くの公達が討たれましたが、平教盛の子・通盛もその一人です。通盛の北の方・小宰相は通盛の死を嘆き悲しみ、夜の海に入水してしまいます。

【氷室神社】
 一の谷の平家の陣内では、通盛が弟教経の仮屋で小宰相と寛いでいましたが、それを見た教経に叱咤され、小宰相を返します。現在の氷室神社付近が仮屋と想定され、二人が別れた場所とされています。

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平盛俊塚】
 氷室神社の西南に盛俊塚が建っています。『平家物語』の「越中前司最期」では、越中前司盛俊が猪俣小平六に騙され、深田に突き落とされて首を取られてしまいます。

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平知章墓(明泉寺)】
 同じく「知章最期」の舞台もこの付近です。児玉党が知盛を見つけて追いかけるのですが、子の知章が間に入り、父を庇って討死します。

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【比翼塚(願成寺)】
 小宰相と通盛の五輪塔が願成寺にあります。小宰相は入水した時、身重でしたが、その子も道連れとなりました。しかし、五輪塔の前に建つ碑は、子を日吉姫として、源範頼の側室となり浄円寺を建立したと記しています。福井県越前市では、範頼が当地に居住し、妻日吉姫は浄円寺を建立したとします。通盛が越前守であったことから通盛・小宰相と関連付けられたのかもしれません。

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〈交通〉
神戸電鉄長田駅・湊川
       (伊藤悦子)

数字への疑問

統計の読み方、数値の意味に正しくつきあうことの難しさ、その目くらましの危うさを知れば、ぎょっと、もしくはぞっとすることが少なくありません。近年、そのストレスはますます増えてきたようです。

最低賃金は上がり続けているが、全労働者の賃金の中位数は下がっていて、つまりは低賃金の労働者が増えていて、生活水準は下がっているのだという指摘(このコラムの筆者は、最低賃金をクリアする程度の低賃金によってしか経営が成り立たないとする企業、それを容認するエコノミストたちの責任を論じています)。

幼児教育・保育の無償化に合わせて、幼稚園・保育園が利用料を値上げする動きが各地で見られるという報道。補助金も利用料も、めいっぱい獲得しようという魂胆が丸見えです。ほんとうに必要な額なのか、なぜ今値上げするのか、政府は経営側に保護者への情報開示を義務づけるべきではないでしょうか。消費増税の目的が歪められる恐れがあるからです。

複雑でわかりにくい消費減税制度(正しくは消費増税の一部還元制度、とでも呼ぶべきですが)。なぜ個人商店では5%でフランチャイズ店では2%なのか、その根拠は?また一見、持ち帰りの方がお得のようですが、持ち帰り容器などのコストとイートインのコストの比較計算などはなされたのでしょうか?つまり、消費増税によって実施する事業に宛てる予算の試算根拠は、きちんとしたものなのか。

今日1日の朝刊に見出される数字だけからでも、年金生活者の心配を増やす要素はこんなにある。白髪三千丈、は文飾ではなくなりそうです。

ミナト君のお母さん

音楽好きのミナト君、1クラス6人の特別支援学級の1年生になって半年が過ぎました。7歳になり、平仮名を覚え、今年はクラス全員の給食を受け取る係をしているそうです。放課後は学童保育に通っていたのですが、夏休みは昼間傍にいてくれる人がなく、お母さんは7月で会社を辞めました。見守っていた私の友人から、メールで以下のように伝えて来ました。

[しかし、退職の挨拶回りに出かけた先の数社で、「条件を整えるからうちで働いてくれないか」と言われ、その中の1社に採用が決まり、101日に仕事に復帰することになりました。CFPcertified financial planner)の勉強をしていることが評価されたらしい。CFPの試験は年2回、6科目ですが、最後の試験日にミナト君が体調を崩し、上京・受験を断念しました。来年、再挑戦だそうです。]

ん?CFPって何だ?―調べてみると、実務経験の必要な国際資格だそうです。新しい仕事は法人向け損保の営業ということで、比較的時間の自由が利くが、本人の築いた信用と人脈が大事、という職種らしい。

就職に苦労した世代の私は、IT技術を活かした在宅の仕事を探すことになるのかなと考えていたのですが、本人の能力と資格とがあれば、条件を整えて受け入れてくれる企業が見つかる時代になってきたのですね。ミナト君やそのお姉さんと在宅で過ごしたこの夏は、母子にとってまたとない思い出になることでしょう。そして親も子も、新しい世界への挑戦に踏み出していく日々が、始まりました。

世界はひとつずつ変えることができる。女はいつも、フロンティアです。