湖畔小学校

我が家には祖父が北海道の釧路へ行って小学校を建てた、という話が伝わっていました。祖父は博多の大工の棟梁でしたが、私が幼いうちに亡くなったので、私には何も記憶がありません。2006年、釧路へ集中講義に呼ばれた時、学部時代の先輩がおられたので、そのことを手紙に書きました。するとご主人が地元の新聞や小学校史をたどって、大正7年10月7日に開校した湖畔小学校の棟札の写真を見つけて下さいました。

集中講義の合間に小学校を訪ねました。昭和17年に移転、新築されたそうで、今はコンクリート校舎に建て替えられていましたが、開校時の棟札が保存されてあり、「祝木村組小学校建築職工人名」の文字の下に「福岡県住人 棟梁」として祖父の名が墨痕淋漓と書かれていました。感激しました。

「大正7年8月28日上棟式」ともありました。博多では新盆の精霊を載せて飾り付けた木製の舟を海へ流す習慣があり、その舟を造るのも大工の仕事だったので、盆が終わってから釧路へ行き、雪の来るまでに突貫工事で校舎を建てたらしい。平屋で教室は2つしかなかったそうですが、正面玄関は一目で学校と分かる造りになっていたようです。卒業生の文集には、かつての春採湖の豊かさや炭坑の賑わいが綴られていました。

関門トンネルは勿論出来ておらず、祖父は海路で行ったものと思われます。なぜわざわざ博多から、という疑問が湧きますが、福岡市役所から頼まれて出かけたのだそうで、調べてみると、釧路の炭坑は、休山中だったのを木村久太郎という鳥取出身の事業家が買い取り、病院や学校などのインフラ整備もしたそうです。彼は別府でも鉱山業を展開しており、あるいは福岡近辺の炭鉱都市とも縁故があったのかもしれません。

湖畔小学校はすでに100周年を迎え、北海道では来週から2学期が始まります。

送り火

三好行雄先生は工学部の出身でした。終戦時は、何のためかも分からず毎日曲線を引かされていた、後で知ったがそれらは特攻機の翼の設計図の一部だった、それが空しくて文学をやろうと思った、と話されたことがあります。

論考は緻密で論理的、『作品論の試み』を読んで、ああ文学研究はこういう風にやれば万人を説得できるんだ、と感動しました。いつかこの方法を分解、分析して自分のものにしてやろうと思い、廉価版を買ってしまいこみました。野坂昭如をもっとワイルドにしたような風貌でしたが、熊本出身だと聞いていたので、そういうもんかと思っていました。調べてみたら炭坑都市飯塚の出身だと分かり、一気に納得しました。論争には正面から受けて立ち、消火や妥協の姿勢を取らない人でした。

しかし話し方は穏やかでした。見合いで結婚して、単身帰京する時、ホームに見送りに来た新妻から、車中で飲んで下さいと何か渡されたので、てっきりポケットウィスキーだと思ったらミルクだった、とか、初めて連れて上京した盆明け、善福寺川の縁で(当時の東京の川はひどいものでした)、独りで送り火を焚いていたんですよ、とか話される表情には、妻へのいとしさが溢れていました。

鳥取大学へ夏の集中講義にお招きした時、36度の炎天下を観光にお連れしたら、背広を着たままなので、お脱ぎ下さいと申し上げたのですが、吉田精一さんから独逸式を叩き込まれたからと仰言って、汗を拭き拭き歩かれました。その後まもなく、血液の癌で亡くなりました。すでに体力は落ちていたのでしょうが、決してそうは見せませんでした。

昨日は諏訪の花火大会。花火大会を開けるのは平和な証拠です。東京湾大花火も当初は戦没者追悼を謳っていたのに、最近は言わなくなったようです。

和歌文学研究

「和歌文学研究」118号 2019/06/10発行 和歌文学会

鴨長明の旅と和歌                   辻勝美

物語中和歌の増減と表現の異同―狭衣物語を中心にー   豊島秀範

平家物語』の表現―叙事に泣くということー      松尾葦江

元永元年十月二日内大臣忠通歌合考

 ー「両判」という行事形態をめぐってー        溝端悠朗

『故刑部卿詠』考―平忠盛家集の編纂意識をめぐって―  穴井潤

 

本誌掲載の拙稿は、2018/10/06の和歌文学会大会での60分の講演を、編集委員会の指定通り400字×25枚に圧縮したものです。本誌は今6月に発行されていたらしいのですが、私の手許には昨日届きました。学会のHPには、機関誌の最新号の目次と入手方法くらいは公表すべきではないでしょうか。今どき公益性を認められている学会には、積極的な情報開示の義務があると思います。

本誌に関するお問い合わせ先 http://wakabun.jp

慈円の文化圏

尾崎勇さんの論文2本を読みました。「梶原景時の頼朝救済の説話をめぐって―『愚管抄』と『平家物語』のあいだ」(『説話の形成と周縁 中近世篇』臨川書店)・「今様をうたう徳大寺実定の意味―屋代本『平家物語』からー」(「文学・語学論集」49・50合併号 熊本学園大学)の2本ですが、どちらも精力的な労作です。

尾崎さんは、仁治元年『兵範記』紙背文書に見える「治承物語6巻」にこだわり、これを原平家物語とみなし、その形成された文化圏を描き出そうとしてきました。すでに『愚管抄』に関する大著も3冊出し、慈円が第3世院主を勤めた西山往生院周辺で、承元4(1210)年頃から原平家物語が創られたとの仮説を立て、続々とその世界を拡大、補強しています。最近は原平家物語=治承物語は頼朝の物語であった、としていて、読み本系に古態を見出す近年の平家物語研究をも踏まえて構想しているようです。

とにかくたくさんの先行研究を引き、たくさんの資料を持ち込み、多彩な話題を盛り込んで大部の文章をつぎつぎに書いていくエネルギーは、驚嘆して眺めるほかありません。前者は、頼朝が旗揚げ初戦で大敗し、山中の洞穴に隠れた際に、追手の梶原景時が見逃す挿話(読み本系に見える)を取り上げ、頼朝の眼光の描写に注目しています。後者は福原遷都後、徳大寺実定が旧都を訪ね、今様を歌う「月見」の場面を取り上げ、屋代本が最も原平家物語に近いと推測しています。

これはもう、ひとつの「物語」ではないでしょうか。「ジャーナリズムに乗れば定説」になりかねない現代では、学説も物語にしないと認めて貰えないこともあり、自分の研究を物語としてまとめられるのは一種の能力でもありますが、平家物語成立当時の社会相と、平家物語内部の虚構世界とは弁別されているのでしょうか。なお屋代本は、抄略によって簡潔な表現になったのだと、私は考えています。

庄園経営

手嶋大侑さんの論文「高子内親王家の庄園経営」(「日本歴史」7月号)を読みました。高子内親王仁明天皇の皇女で、賀茂齋院を勤め、貞観8(866)年に亡くなりましたが、筑前国席田郡に庄園を所有し、その庄園をめぐって観世音寺と紛争があり、それに関係する文書(観世音寺文書)が伝わっています。手嶋さんはこの史料を使って、問題の庄田が仁明天皇の死後処分によって高子内親王に譲られ、彼女の没後、内藏寮に売却され、手続きが完了するまでは内親王家が管理していたことをたどりました。そしてこの庄園管理者に当時の筑前介永原永岑が任命されていたこと、高子内親王家と永原氏は個人的な人脈でつながりがあったことを、着実に考証しています。

さらに史料を読み込むと、国司のバックアップがある間は庄園経営が安定しているが、それを離れると紛争には消極的対応しかできなくなることが分かり、こういうあり方は、9世紀後半の院宮王臣家の庄園経営の典型例と言えるのではないかと、手嶋さんは結んでいます。なお院宮王臣家の活動は、国司と富豪層という2つの基盤の上に展開していたという、近年の学説にも符合することにも注目していきたい、という意向のようです。

手嶋さんの論文はいつも手堅い証明があり、慎重で、しかし新見を含んでいるところが特長です。来春3月14日の明翔会主催研究報告会にも、発表をエントリーしているそうで、日本史(特に中古)に関心のある方はせひお出かけ下さい。来聴歓迎です。

私的太平記研究史・補遺

学部2年から3年にかけ、一念発起して、日本古典文学大系(赤い表紙の方です)を全巻読破しました。太平記を通読したのも、たぶんその時だったと思います。幾つも印象的な場面や挿話があり、平家物語とはまた別の魅力を感じました。第3部はやたら人名が多く、しかも離反がめまぐるしくて、量で勝負するような叙述がつらく、全体を抱えきれない気がしましたが、それでも独特の文学世界があると感じていました。

3年の終わりには卒業生を送る会を主催するのですが、卒業式と同じような送辞ではつまらないと、密かに案を練りました。太平記の有名な道行文「落花の雪に踏み迷う・・」をもじって、卒業生の卒論題を詠み込んだのです。漢語詩語を象眼のように打ち込んだ文体の美しさに惹かれていたからでした。

卒論に軍記物語を選んだので、指導教授に勧められ、先輩に軍記物談話会(軍記・語り物研究会の前身)に連れて行って貰いました。本来は自由な同人会で、若手も対等に受け入れる雰囲気がある一方、同性を排除・支配せずにいられない、難しい女性の先輩がいました。当時、学問の世界に生き残る女性はごく稀だったからでしょう。それゆえ、太平記について書くにはある種の勇気が要りましたが、私には私なりの機会があったこと、すでに本ブログに書きました。

太平記はさきの大戦で政治利用されたため、戦後しばらく敬遠されていました。NHK大河ドラマに取り上げた時(1991年)、やっと戦争が終わった、とする声があったものです。一方で、研究者たちが諸本や史料を障壁にしている、と私は感じていました。名古屋に勤務した時、大森北義さんと、もっと多くの人が太平記を読みやすくなるためのツールを作らないか、と相談しました。あれこれ考えている内に私が転勤してしまったので、その約束は果たせず、今般、軍記物語講座(花鳥社刊)の企画となりました。

2人の草分け

学部の近代文学の授業は、自然派と反自然派の二つの特講があるだけでした。隣接の大学へ、憧れの吉田精一先生の授業に潜ってみたりしましたが、4年次の後期に突然、三好行雄先生の演習が開講されることになりました。同級生で近代の卒論を書く人は1割しかいませんでしたし、必要な単位は取り終わっていましたが、みんな、近代の演習ってどうやるんだろう、という好奇心には勝てませんでした。助手になっていたOGも一緒に、受講しました。

題材は森鴎外の「舞姫」。それまで演習は厳密な訓詁注釈でしたので、手分けして徹底的に調べ上げました。いよいよ明日発表、という晩、誰かがふっと言ったのですーねえ、近代の演習ってこういう風じゃないんじゃない?しばらく沈黙があった後、ともかく明日はこれでやるしかない、ということになりました。翌日、発表の間も後も、先生は一言も言われませんでした。

そもそも初めて教壇上に現れた時、もみあげを伸ばし、黒眼鏡で、何も知らずに池袋で遭ったら避けて通るようなスタイルでしたから、聞き返すこともできません。その後、著書を読み、大学院でお会いして、独特のかっこよさを満喫しました。近代詩前史の特講を聞き、演習は幸田露伴でした。午前中の授業なのですが、いつも酒の臭いがしていて、最前列に席を取ると、先生の吐く息で酔ってしまいそうでした。

大学院では、何とあの吉田先生もおられて(艶笑譚がお好きでした)、演習は齊籐緑雨の注釈、明治文学全集のための作業だったらしい。初めて見る、明治の女の衣装や小物(その描写によって女性の素性が分かるはずなのです)に、どうやって注をつけるか。ここでも訓詁注釈の経験に則って、当時の小説を片端から読み、同じ物が描かれている用例を捜し、切り抜けました。

後年、三好先生を鳥取大学の集中講義にお招きした時、やっと、20年前の鴎外の演習の感想を聞きました。とにかく吃驚していたんですよ、とのことでした。