庭の山椒の木

山椒の木の苗を貰う約束で、友人(中世英文学が専門)と呑みました。焼鳥屋に入り、2人とも日本酒好きなので、日高見・上喜元・伯楽天・田酒・黒龍・仙禽・・・店の奨めに従って燗にしたり冷やにしたりして、5時間以上お喋りしました。話題は縦横無尽に飛び、最近の女子教育、女性の仕事と結婚の両立、国文学のグローバル化、京都や欧州の昨今、老いたアラン・ドロン高橋真梨子の魅力等々にも及びました。

息子世代と同居するために家を増築している最中で、庭の山椒の木が踏みつぶされない前にとのことで、鉢植えと広島土産のレモンを頂き、私からは掘り上げたムスカリの球根を分けました。これでもう、防犯カメラにびくびくしながら児童館の庭から木の芽を失敬してこなくてもよくなったわけです。ただ山椒は雌雄異株なので、実がなるかどうかは分かりません。来年以降の楽しみです。

男性研究者が何気なく、あるいは大向こうに受けようとして述べる発言が、どれだけ女性を傷つけ、その行く手を遮っているか、そのことを分からせるためだけにいかに精力を使ってきたかという話で互いに共感しました。情けないことですが・・・性の一方が権力を持っている間は、もう一方はこういう戦いを強いられ続けるのでしょうか。

結婚して幸せそうにやってきてもじつは、互いに、これでよかったと思えるようになるのに40年かかった、という実感のこもった話も出ました。蒼井優が婚約発表の記者会見で、彼を選んだ理由に、冷蔵庫の扉もちゃんと閉めるし、と言ったことに2人とも、結婚生活ってああいうもんだ、と同感でした。日常の些事が問題なのだから。今からでは間に合いませんね、という笑い話になって、学生だけが歩いている、満月の交差点で別れました。

父の日

父の日にネクタイを贈る娘は多いのではないでしょうか。我が家では、誕生日と父の日にはネクタイを贈ることになっていました。父の日には夏物のタイを選ぶのですが、稼働率が低いので、扇子にすることもありました。

それゆえ、男性に会うとまずネクタイを見る癖がついてしまいました。恩師の市古貞次先生は、いつも水色の、よく見るとちょっとずつ違う柄のものを締めておられたので、父にそう言うと、「あ、それがほんとのお洒落だよ」と言っていました。

我が家は非ブランド主義(無銘でもいいものを見つけるのが、目利き)だったので、価格に関係なくデザインと色で選んでいたのですが、ある年、安売り品の中に気に入ったものがあったので贈ったところ、だいぶ経ってから、締める時の手触りで値段がわかる、と言われてしまいました。

娘は、自分の父親には必ず、年齢より若向きのタイを選ぶものだそうです。緑色や茶色のものを選ぶと、背広に合わないと言って締めてくれないので、青や黒に赤い差し色のあるものをよく買いました。一緒に外出する際には、ちゃんとプレゼントしたものを締めてくれたのですが、ある時、彼の同僚が「随分若やかなタイを締めてますね」と冷やかし、父は「今日はアフリカの使節団と会ったから」と言い訳しました。以降、地味なものを選ぼうとしましたが、売り場の店員(若い男性)に実年齢を言うと鼠色のものばかり出して来るので、10歳若く言うことにしていました。

某強大国の大統領は、勝負どきには真っ赤なタイを締めます(たいへんわかりやすい)が、あれは娘が選んだのでしょうか。父が亡くなって17年経ち、もう男性の胸元を見る習慣はなくなりましたが、NHKのニュース・アナが、ときどきどうしようもなく野暮ったいのには閉口します。

加齢臭

大失敗をしました-ロベリアがどんどん枯れていくので、ブルーサルビアをもう1株、買い足したのですが、葉はこすると芳香を放つのに、花は何と加齢臭に似た匂いを出すのです。1株だったら気にならなかったのですが、今日のようなしめじめと雨の降る日、蜜柑が腐り始める前のような、爛熟した匂い(グラビア写真のインクもこれに似ている)が、窓際で読書していても鼻を刺激します。

スパティフォラムという観葉植物があり、緑の葉と白い大きな苞を持つ花が爽やかで、日陰でも元気に育つので、この時季、木々の間に置くのにいいのですが、この花もまた、加齢臭に近い甘ったるい匂いを放ちます。尤も彼らからすれば、腐るほど熟した果実は蠅などの昆虫をおびき寄せるには最適なのでしょう。ラフレシアという地上最大の花は、腐った肉の匂いで昆虫を呼ぶそうです。好き嫌いは人間の都合。しかし高齢者の身辺では、この匂いだけは禁物。毎朝、家中の窓を開け、洋服箪笥の扉を開放するのはそのためです。

広い庭があったら、植えたいのは梅、沈丁花、素馨花(ジャスミン)、梔子、藤袴、木犀(我が家に今あるのは素馨花と梔子だけ)・・・香りは近辺にも楽しんで貰えるからです。逆に匂いを遮断する方法は、見つかりません。やれやれ。つきあいの薄いものを家に招き入れるのは、慎重にすべきでした。

替え歌

植木朝子さんの「歌い替え・替え歌・連作・類型歌・継承歌-今様のヴァリアントをめぐって-」(「古代文学」56号 2017/3)を読みました。

芸能はゆれるのが当たり前、むしろ固定した時に芸能としては死ぬ、と考えていたのですが、なるほど歌謡の「歌い替え」という独特の創作方法を、テキスト論として考えてみるのも有益かもしれません。平家物語には、「殿上の闇討」「祇王」を始め、歌謡の歌い替えによるメッセージが、物語の中で重要な役割を果たしている例が幾つもあります。和歌でもなく手紙でもない、大勢の人前での即興は、一種独特の効果・機能を持っていたと見なければなりません。

植木さんは406,431の歌謡を、保元の乱後、讃岐の松山に流された崇徳院に関連するのではないか、しかし事件から採録までの時間が短すぎるので、後年の増補かも知れないと述べています。『梁塵秘抄』を通読したのはもう遙か昔のことなので、研究の現況には通じていませんが、私はふと、時間的に近いからこそ時事の替え歌と見ていいのではないか、と思いました。『梁塵秘抄』の編集・成立過程については、どの程度明らかになっているのでしょうか。『新古今集』における『源家長日記』のような資料が、『梁塵秘抄』にはない。案外、後白河院は、自分の周囲で新しく歌い出されたものも、構わず編集過程で突っ込んでいったのでは。

しかし保元の乱で敗れて、怨念に囚われ、望郷の念に苦しんでいた崇徳院を今様でおちょくり、その歌詞を自ら編んだ集に採録した後白河院とは-尤も当時、反逆者は狂歌や駄洒落を以て鎮撫されるのがつねでした(『軍記物語論究』63頁以下)。『梁塵秘抄』は名曲集ではなく、毒をも含んだ、生きたコミュニケートの花束だったかもしれません。

 

鎌首

朝一番に青虫に遭ってしまいました。梔子(くちなし)につく小さな蛾の幼虫です。雀が見逃したらしい。葉に隠れてなかなか見つけにくいのですが、きれい好きらしく、お尻を振って糞を地上に撒き散らすので、見つかります。久しぶりに爽やかな好天、ムスカリの球根を掘り上げて干しました。雨に当てると腐ってしまうので、明日からは天候に気をつけなくては。後にはペチュニアの苗を植え込みました。

ロベリアが枯れた後をと、毎日のように花屋の店先を覗いていたのですが、今日は新しい苗が出ていました。我が家に今あるのとは色違いの日々草と、ブルーサルビアを1株だけ買いました。盛夏に末枯れを起し、懲りたことがあるからです。花屋の親父は、サルビアだから秋までもつよ、と言うのですが、自信がない。赤いサルビアとは花も葉も違うように見え、ラベンダーに似ています。葉をこすると強烈な香りがします。ネットで調べると、セージの仲間だと判明。子供の頃、欧州の童話に、鵞鳥の腹にサルビアを詰めた丸焼という料理(美味しそう!)が出て来て、サルビアは食べられないのにと不審に思いましたが、セージをサルビアと訳したんだなと推測がつきました。

ブルーサルビアの末枯れ防止には、切り戻しが必要らしい。近所のカレー店は、いつも白いペチュニアばかりを鉢に植え、未だ咲いているうちに切り戻しをして丸坊主にするのですが、3日もすればまた新しい花が咲きそろっています。大胆で上手な園芸家です。切り戻しのコツは、どうすれば身につけることができるのかしら。

軍記物語講座第3巻、原稿締切には未だ間があるのに、すでに2本、原稿が届いています。リキの入った、読み応えのある論考です。細かな本文校合に明け暮れて腐っていた私も、そろそろ鎌首をもたげ始めなくては。

ついてない日

今年2匹目のゴキブリに遭ってしまいました。若い人に関してちょっと厄介な話にぶつかり、しょげていた夜です。父の郷里福岡ではこの虫をゴッカと呼び、夏の夜、突然現れたところを追いかけ回すには短くて呼びやすいのですが、東京ではゴキブリと呼ぶのに、なかなかなじめませんでした。語源は「御器をかぶる」(囓る意なのか、潜り込む意の被るなのか、両説ある)とされているようで、ゴキカブリからゴッカに変化するのは納得できても、カ音が落ちてゴキブリに変化したとは、どうも腑に落ちません(誤植が原因との説もあるらしい)。

いろいろ種類があるようですが、つやつやと黒光りする大きな奴です。例年、夏の初めか終わりかに1、2匹遭遇して追い回し、あの世へ送るともう遭わずに済むので、今年ももうこれきりにしたいものです。蔵書の糊に味を占められては一大事と、要所要所に置き型の防虫剤を仕掛け、キャンデーの包み紙に至るまで食べ滓の始末には留意しているのに、雨樋や排水管などを伝って侵入してくるのは防ぎようがない。横浜にいた時は、向かいの家から羽音を立てて飛び込まれ、さすがにこの時は怯みました。

鳥取在勤時代、半年の内地留学を終えて真冬のアパートに戻ったら、奴らの死骸が点々と落ちていました。夏の終わりに餓死したらしく、使いかけのティッシュペーパーのつまんだ部分(汗が沁みていたらしい)が、囓り取られていました。怨念がありそうで不気味でした。

家の中の虫はほかにもいろいろいるのに、何故彼だけが不愉快なのか、考えてみても説明出来ません。あの素早さ、油光り、それに不意打ち感でしょうか。厄介な話をどうするかは、一晩考えます。これにて御免。

2000万

金融庁有識者会議、金融審議会の市場ワーキンググループが出した報告書が話題を呼んでいます。国会では、首相がずれた答弁をし、財務相は記者会見で、報告は政府の方針に合わないから受け取らない、と言う(諮問したんじゃないの?)。報告書をよく読めば、老後に不足する額は¥2000万どころか¥3660万だとする報道もあります。

以下は、あくまで個人の見解です-あらゆる情報は、どういう立場の誰が、どういう目的で出したかをふまえて評価するのが鉄則。この報告書は、「金融庁」が出させたもの。個人の貯め込んだ資金を市場に吐き出させ、活発に流通させる(必ずしも当人の手許に増えて戻るとは限らない)ことを望む立場からだという前提で読むべきでしょう。

金融庁の公式サイトに載っている報告書の全文と資料の一読をお勧めします。全部は読めねえ、という向きには、p37~51の付属文書1、2だけで十分です(1は「高齢社会における資産形成、管理の心構え」、2は同じく「金融サービスのあり方」という題)。

前記のような、発信元の立ち位置と目的を知って読めば、これはしごく尤もな情報でしょう。今後、年金だけで悠々たる老後を送れないことは、ほんとうです。殆どの人が、何がしかの貯蓄を取り崩しながら、いつ尽きるかは分からぬ寿命を生きていかざるを得ない。持ち家がなかったり、頼れる親族がない場合は、さらに不安が大きいでしょう。それを直視する必要性を説くのは、(政府発でなければ)まっとうなことです。

しかし問題は政府側が野党からの質問や世論に対し、年金積立額は増えており、年金制度は安泰だ、と言い放つこと。国民全体の生活不安を減らし、生涯に亘って真面目に生きられる社会を維持するのが、政治家の仕事です。国民には報告書を参考にして貰うが、自分たちは、国民の個人資金取り崩しが少なくて済むように、粉骨砕身すべきなのです。