拾う

放っておくと枯れてしまう、と分かった花や芽を、つい拾ってしまいます。4,5日前、小学校の脇に真っ赤なフリージアの花が抜き捨てられていました。誰かが、花を折ろうとしたら根元から抜けてしまったので、驚いて捨てたらしい。このまま放置すれば枯れるだけですので、辺りを見回し、拾いました。家へ帰って、赭い芽の出始めた石榴の枝を剪り、白い益子の一輪挿しに一緒に活けました。

一昨日は、植え込みの陰に播いておいた百合の2年生が抜き捨てられていました。未だ細身ながら、みずみずしい葉と臙脂色の茎と白い根元が美しい。百合のむかごは、1年目は一つ葉で芽を出しますが、3年目から花が咲きます。百合の花粉を嫌う人が抜いたのでしょう(でも球根が残っているから、来年も生えます)。拾って、青い硝子の一口瓶に挿し、小豆色のビオラを添えてみました。この季節らしい1点になりました。

昨日、神代桜の小枝が落ちて萎れていたのも拾いました。鳥が落としたのでしょうか。咎められないようにショールにくるんで持ち帰りました。ブランデーグラスの底に水を張り、浮かせておくと、少しずつ花のふくらみが戻ってくる(10時間も経っているのに!)のを確かめて寝ました。今朝、水を替えようとしたら、草疲れた花はさすがに散ってしまいましたが、新芽が1つ輝いているので、小さな香水瓶に挿しなおして、もう数日眺めることにしました。

捨てる神あれば拾う神あり、という諺もありましたっけ。

神代桜

友人の車で、北杜市神代桜を見に出かけました。途中の山林の新芽や山桜、花桃などが目を楽しませてくれました。ところどころ一昨日の雪が残っています。お目当ての神代桜は満身是創痍といった状態で、花はすでに盛りを過ぎていましたが、さまざまな種類の桜の古木が周囲に咲き誇り、豪華な時間でした。この辺では何気ない民家の庭先や土手に、樹齢数十年とおぼしき桜が伸び伸びと枝を張っていて、桜王国といってもいい地方なんだなあ、と感心しました。

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北杜市神代桜

国道を走っても食堂が見つからない。やっとラーメン屋を見つけて遅い昼食を摂りました。インターチェンジのトイレに活けてある花束があまりに極彩色なので、触ってみましたが生花です。チューリップ、ムスカリスターチス、金魚草・・・同じような気持ちの女性たちが触ってみていました。地元産の切り花なのでしょう。外国輸入の花を見慣れた目には、この上ない贅沢に見えました。道の駅に寄って、ジャムや漬物や野菜など、あれこれ地元の産品を買い込みました。これもまたドライブの楽しみの一つです。

帰京し、池袋で別の友人と落ち合って呑む約束だったのですが、池袋の変貌に追いついて行けず、30分もお互いに探し合いました。やっと出会えたときは思わず2人とも歓声を上げてしまいました。焼鳥屋へ入ってよもやまの話をし、お土産を交換しました(彼女からは老舗の柏餅、私からはさっき道の駅で買ってきた鮑の肝のワイン煮を)。

3人とも煮詰まった日常を一旦リセットし、また明日から元気に、時にはとぼとぼと、それぞれの日々を紡いでいきます。

台湾の平曲譜本

鈴木孝庸さんから、国立台湾大学図書館典蔵平家物語音譜本第一巻『平家物語節付語り本』(国立台湾大学 2018)という本を頂きました。台湾大学は、かつての台北帝国大学であり、近世から近代初期の和古書を多く所蔵していますが、その大半が未整理のままらしい。鈴木さんは定年後、ボランティアで台湾へ通って、大学図書館の手助けをしているそうです。勿論、ご自分の研究テーマである平曲譜本や軍記物語の調査も目的の一つです。

本書は、その中の波多野流譜本2冊(「我身栄華」を始め22句)の影印と翻刻に解説を付した、全550頁にも及ぶ大著です。鈴木さんの解説も分かりやすい上に、しばしば貴重な指摘があり、共編者の孫暘さんが平家物語の芸能関連記事について書いているのも楽しく読めます。

鈴木さんは平曲譜本の総体を見渡せる研究者としてだけでなく、前田流平曲の演奏家としても平家物語200句全部と秘事の伝授を受け、この3月末に通し語りを完結されました。「平家語りと聴かせどころ」(新潟大学「人文科学研究」144輯 2019/3 )には譜本『平曲中音集』の影印と翻字を載せると共に、実際に演誦した経験に基づくコメントを記しています。

自他共に認めるマイペースの人ですが、定年後ますます活躍の幅が広がり、演奏もようやく鑑賞に堪えるほどになってきて(失礼。でもこれは大方の評判)、楽しそうに忙しく走り回っています。公演を聴く機会があれば、一度はお出かけになるのもいいと思います。公演のお問い合わせその他は、tsune75@human.niigata-u.ac.jpまで。

棲み分け

眼科の定期検診に出かけました。冷たい雨の降る日で、杖と傘とを持つと手が混乱し、我ながらもどかしい。バス停の雨だれに打たれて、鷺苔が咲いていました。苔ではなくれっきとした草なのですが、地べたに這うように広がり、盆栽の根元に貼り付けると風情があります。土壌によって貧相になったり大輪になったり、いろいろです。

この時季の草は、伸びる力と新しい葉茎の形姿の美しさに思わず見とれてしまいます。私は、海なら終日見ていても飽きないし、その次には草、そして空ゆく雲も、いつまで見ていても飽きません。幼年時代に海辺で育ち、病気がちだったので仰臥して暮らし、(当時は子供向けの絵本などは貴重品だったので)植物図鑑を読みふけっていたためでしょう。草原か浜辺に、車椅子で放置されても暮らせるなあ、と思いました。願わくはいい本が1冊、手許にあれば。

大学病院はいつも通り混んでいましたが、朝一番で来た人たちの波が引き、午前の最後の診察に間に合う時間帯を狙うと、スムーズにいきます。この病院も大学入試で女性の合格を抑えたらしいのですが、眼科外来には女医が多く、看護師やそのほかのスタッフにも女性が多くて、雰囲気がもの柔らか(例外的医師はいますが)なので、好意を持っていました。性的棲み分けが成功していたのであれば、悲しいことです。

検診のために差した目薬で瞳孔が未だ開いたままなので、世界が滲んでいます。それゆえ本日はこれまで。

国書

元号の話題が、こんなにフィーバーするとは意外でした。明治・大正・昭和前期(戦前)・昭和後期(戦後)という区分は、何となく文化の違いも判って手放し難かったのですが、平成に入ると換算がめんどうで、元号に愛着が薄れました。しかし世界規模で見れば、基督生誕で歴史を数えることに抵抗がある人々もいるわけで、元号を併用することでいわば基督教的歴史観を中和している、というのが私の偽らぬ実感でした。

ところが40代以下では、元号天皇制がセットであることに無自覚な人も多いらしい。元号はやがて時の天皇の諡になりますが、国政決定権のない象徴天皇が、今さら暦を支配することはできません。だからと言って、偶々その時行政の長である者が、新元号の意義をしたり顔に(牽強付会で)説くのは、どんなものでしょうか。

何より噴飯ものなのは、国書から採った、という評価です。万葉集からとはいえれっきとした(『文選』等の影響濃厚な)漢文の中から採用された2字ですし、そもそも漢字が中国伝来であったのですから、国書か漢籍かという考え方自体が愚かしい。そういう見方にこだわっている間は、やはり日本は中国には勝てない、と中国から揶揄されても仕方がないでしょう。

日本上代の書き言葉は、日中のバイリンガルでした。文字だけでなく制度を始めあらゆる文化の手本が中国だったのです。それは、アジア地域における印度と中国の文化の影響の大きさを示すものであって、21世紀の国の優劣を論うものではありません。日本は上代から中世まで、大陸と半島の文化を、その後は南洋・欧州の文化をも摂取し、それらを巧みに応用、変化させて和風文化を創ってきたのです。その咀嚼力、応用力が我々の誇りです。これは永年に亘って多くの評論家たちが諄々と説いてきたことです。

漢字で元号を作る以上、国書か漢籍かなどという愚かしい議論はやめましょうよ。

靴の苦痛とドレスコード

女性にパンプス着用を義務づける職場内規を糾弾、厚労省に企業への指導を求める署名運動が話題になっています。通勤用の婦人物スーツ(ポケットがない)や靴に関する不平不満は大いに賛同したかったのですが、ツイッターを読んでいくうちに、あれ?と思いました。問題がごちゃまぜにされ、運動の狙いが見えなくなっているからです。

整理してみましょう。①パンプス、殊にヒール靴は職場向きか? ②女性にパンプス着用を指定する職場内規は差別か ③就活用画一的ファッションの是非 ④厚労省への要請。

服装に関しては、女性に対してより過酷な規制がされがちなのは事実です(本ブログの「ブルージーンズ」や「面接試験」の項をご参照下さい)。ヒール靴は足の健康によくないし、動きにくいし、長時間履くのはつらい、というのも事実でしょう(但し、ヒール靴を履くと背筋が伸びて、凛として見えるのもまた事実)。③はまた別に論じるべきでしょうから、今は擱きます。

#kutooに殆ど賛同しそうになって、投稿者が葬儀会場のアルバイトであることにひっかかりました。これはドレスコードの話だ。儀典を扱う職場なら、関係者にドレスコードがあるのは仕方がない。お客たちはみな儀式用の服装で参加するのですから。「ご焼香を」と、運動靴で案内されたらどうでしょう。会場設営などがやりにくい、というのなら靴は2種類用意して、履き替えるべきでしょうし、職場内で分担や手順を話し合う方が先でしょう。

厚労省に何を要請するのでしょうか。むしろ靴の生産業者に呼びかけて、礼を失せず、働きやすい靴の開発と普及をして貰う。そして各職場ごとに、服務規程の合理性を検討する運動を起こす―そういうのが、社会人らしいやり方だと思います。

恩師の墓参

東京霊園へ、同窓の5人でお墓参りに出かけました。来年の3月25日が恩師の一七回忌なので、来年お参りに行こうと言ったら、もうみんな、思い立ったらその時にやっておくべき年齢だから、今年行こうよ、という話になったのです。最近は中央線に乗る機会がないので、立川と三鷹と高尾のどれがお茶の水に近いのか、特快はどこで追い抜くのかも分からず、快速に乗車しました。そのうち車内アナウンスが、特別快速にお乗りの方は云々と言ったので、慌てて駅名も見定めずに降りて、ホームの向かい側に来た列車に乗り換え、どうやら約束の時間通り高尾に到着。

駅前で連れと合流し、昭和天皇陵の裾を廻ってタクシーで霊園へ。運転手が北条氏の歴史や旧街道、産業戦士慰霊塔などを説明してくれました。4年前に3人で来た日は、4月というのに雪が降り、墓なんか来るな、ほかにやることがあるだろ、と先生に言われているのかも、と話したのですが、今日は汗ばむほどよく晴れて、一面に桜の花霞。しかし3人のうちの1人はすでに鬼籍に入り、この次来る時は何人になっているでしょうか。手分けして持参した線香と供花と煙草と、赤門前の扇屋の菓子をお供えしました。

その後、料亭うかい鳥山で食事をしました。とりとめのないお喋りをしながら、山菜や稚鮎をあしらった料理と青竹に入った冷酒を楽しみました。床には碧梧桐の短冊が掛けられ、庭には梅と桜と、菫と一輪草、片栗が同時に咲いています。水芭蕉園がありましたが、葉が茂りすぎて花は押しつぶされそうでした。

帰途、医科歯科大の前のバス停で、ぼんやり夜桜を眺めながら、今年の桜はこれで見納めかな、と思いました。若い頃にはそんなこと考えませんでしたが。