数字

国の基幹統計がいい加減だったことが問題になっています。雇用、賃金、勤労と、最も基本的な数字が信用できない、連続性があやしいとなると、政策の成果を擬装しようとした、と疑われても仕方がないでしょう。その上、検証作業を請け負う第三者委員会のあり方にも疑問点が多い。統計の専門家たちはどうしているのか、行政の都合に引きずられるだけで傍観しているのか、と言いたくなります。

ここ20年の官僚の劣化が言われていますが、官僚だけでなく、日本人の数値への感覚が摩耗しているのでは、と思うことがあります。製造業での検査の不正も、同じ現象ではないでしょうか。このくらいはいいや、とする甘さがどんどん拡大してしまう。手抜きと合理化のはき違えもあります。すぐには危険が顕れてこないが、いや、すぐではないから、最もいけない状況です。

自分の手足でものを作っていた頃、自分の五感でできばえを確かめていた頃は、数字の怖さにも裏付けがあった。数値は液晶画面に出てくるだけになり、多少のずれは大丈夫、と、いつのまにか根拠のない慢心が広がったのではないか。デジタル時代の数字とのつきあい方を、文化論として考えるべきかもしれません。

統計調査の不正に関しては、厚労省の仕事が近年多岐に亘り、量的にも多すぎるようになったからだ、という声もあるようです。なら、そういう声を揚げるべきでした。高齢化・少子化社会では厚生行政こそが国を支える、未体験の未来に備える統計の数字は最も大事、くらいの使命感を、政治家が官僚やその周辺に吹き込んでもよかったのではないですか。

爆発するビオラ

寒い日が続いて、ビオラの株が半分萎れました。どうやら夜中に茎が凍ったらしい。萎れた部分だけ摘んで、小さなカップに活け、洗面台に置いたところ、一晩で爆発的に茎を伸ばし、小さな蕾まで一気に咲き出しました。ゆっくり生き返らせる心算だったので、少々慌てました。外気の中ではよほど我慢していたとみえます。

リルケの薔薇(四季咲きの薔薇の冬の花を、薔薇を愛した詩人リルケの命日にちなんで、我が家ではそう呼んでいます)が、今年は今頃咲いています。しかも例年なら冬は玩具のような小さな花なのに、今年はふっくらと大輪が2輪も咲き、疲れはしないかと心配して剪ってみたところ、花びらは寒風にさらされたためかごわごわで、すっかり傷だらけでした。もっと早く剪ればよかった、と後悔しています。

冬に咲くのは、品種改良されていてもやはりきついのでしょう。今年は侘助は咲かないようです。去年、白花でなかったので落胆したのが癪に障ったかな、と反省。実生の大島桜の芽が陽光に光る朝は、今年は咲いてくれ、と祈るような気持ちです。

これからは毎朝、ムスカリの株元を覗き込んで、蕾の出るのを待ち続け、夢の中でもカラフルな花を探し歩くようになったら(何故か10代から、毎年、早春にはそういう夢を見る)、春の到来です。

武家政治の創始

元木泰雄さんの『源頼朝』(中公新書)を読みました。頼朝伝に関してはずっと、永原慶二氏の岩波新書(1958)を身近かに置いてきたのですが、本書を読み終えて、何だか晴れ晴れと視界が開けたような気がしました。60年以上経った日本史研究の蓄積のせいもありますが、私にとっては、読み本系平家物語のあちこちに、ぷつっ、ぷつっと顔を出す、東国武士や源氏関係の記事の意味が、すべて明らかになったわけではないものの、全体としてつながりを持っていることが感じられるようになったからです。

最近の軍記物語研究は、歴史学に依存しすぎるという懸念をひそかに抱いていたのですが、本書を読みながら、歴史と歴史文学の間、つまり文学側から歴史に近づく際の軸足の置き方について、ヒントが掴めそうな気がしました。これを何とか身についたものにしなくては、と自らに言い聞かせながら読んだのです。

元木さんは『河内源氏』(中公新書 2011)ほか、武士の時代の始まりについて、多くの書物を出していますが、読みやすくて実証性・説得性に富む点が特徴です。本書でも、頼朝の企図した権力の構想がよく分かり、従来の俗説・巷説をひとつずつ外していく過程が爽快です。

吾妻鏡』の記事に脚色が多いことはよく知られていますが、ではそれをどう扱っていけばいいのか、歴史学の側からは、読み本系平家物語の記事をどう読むべきか(延慶本だけ見ていればいいわけではない。少なくとも長門本・延慶本・源平盛衰記は三位一体と見るべきです)など、作業をしながら適切な方法を模索、確認しつつ進むことになるのかな、と思いました。前途遼遠。

源平の人々に出会う旅 第25回「備中・妹尾最期」

 寿永2年(1183)閏10月、水島の大敗を聞いた義仲は、倉光三郎を備中へ先行させますが、倉光は同行した妹尾太郎兼康(北陸合戦で捕虜となっていた)に討たれてしまいます。

【妙善寺(福隆寺・福輪寺)】
 『源平盛衰記』では、兼康は平家に合流するため、福輪寺阡(覚一本は福隆寺縄手)を封鎖し、佐々迫(ささのせまり)に兵を置いて、子息兼通・郎等宗俊と共に板倉城へ向かいます。しかし、義仲の行動が早く、佐々迫は攻め落とされてしまいます。福隆寺は現在の妙善寺、佐々迫は篠ヶ瀬川付近と考えられています。

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【鷺の森】
 兼康父子は自刃、宗俊は太刀を口に含み馬から飛び降りて自害します。義仲は、兼康の首を鷺の森に掛けます。「鷺の森」は首掛けの森とも呼ばれ、鷺の森公園にその名が見られます。付近には兼康を祀る太郎荒神もあります。

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【妹尾太郎兼康の墓】
 吉備津神社の近くにある兼康墓は、兼康の家臣の建立とされています。岡山県内には伝兼康墓が何箇所もあります。兼康は、灌漑用水の整備(湛井十二箇郷用水)を行った人物として伝わっており、その功績が讃えられているのでしょう。

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吉備津神社
 吉備津神社は、他に類を見ない比翼入母屋造の様式を持つ備中国一宮です。鬼退治伝説や『雨月物語』「吉備津の釜」の舞台としても知られ、『曽我物語』には、吉備津宮の王藤内が登場します。『源平盛衰記』では、平重盛の夢に、頼朝の祈申納受により吉備津宮が清盛を討ったとしています。また、背後に位置する吉備の中山は、鹿ヶ谷事件で配流された藤原成親が殺害された場所です。

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〈交通〉
JR山陽本線岡山駅・JR吉備線吉備津駅
             (伊藤悦子)

軍記物語の時代

軍記物語講座の第1巻・第4巻の付録として、年表をつけることになり、その作成者たちと編集者との打ち合わせに出かけました。場所は東京駅八重洲口近くの会議室ですが、30分ほど早く着いたので、近くの椿珈琲店に入りました。白いメードエプロンをかけたウェイトレスが、恭しく注文を聞きに来たのですが、豆を挽くところからやっているのか時間がかかる。テイクアウトにできないか、と言おうとしたところへ、やっと来ました。ドミタスのような小さなカップでしたが、味わう余裕もないままがぶ飲みし、¥1000の勘定(さすが八重洲口!)を払って会場に駆けつけました。

第1巻には初期軍記から承久記まで、第4巻には室町軍記を中心に収めたので、まず年代の幅を決めるところから始めました。軍記物語の時代を見渡せる年表が、この2冊で入手出来るようにしようというもくろみです。軍記物語関係だけでなく他の文学や政治・社会事象の項目をどのくらい拾うか、少ない紙数に収めるために表記をどう工夫するか、似たような企画から差別化するにはどうしたらよいか、等々の議論をし、作業手順を確認しました。

5月の10連休に、見本原稿を持ち寄ってすり合わせしようと決めて解散。昨日は、第2巻の付録作成者と、作成上の問題点を話し合いました。そちらは、来週にも見本原稿持参で、編集者と打ち合わせしようと決めたところです。ひとつずつ困難を乗り越えて、軍記物語講座ができあがっていきます。

2019年度文系大学院奨学金

公益信託松尾金藏記念奨学基金(2019年度)の公募が始まりました。大学推薦ですので、この4月から文系の大学院に入学する予定で応募を希望する方は、所属先の大学院事務室へお問い合わせ下さい。書類の提出先や締め切り日は、大学ごとに設定されていますので注意して下さい。

地域と専門分野に限定があります。給付型の奨学金ですが、1年ごとに継続審査が行われます。他の奨学金との二重受給はできません(貸与型でも不可)。詳細は三菱UFJ信託銀行のHPに掲載されており、応募要項や応募書類の様式も載っています。

基金は2003年以来、すでに150人近くの院生を支援し、修了者は研究者や社会人として活躍しています。進学の目的、研究計画など、高水準の審査を経て、例年10名前後の採択が決まり、6月中には本人に通知されます。今までの成果は、論集『明日へ翔ぶー人文社会学の新視点ー』(第1~4巻既刊 風間書房)となって出版され、募集先の各大学に寄贈されています。

なお修了者による任意の同窓会「明翔会」があり、研究成果報告会などを行っています。本ブログの明翔会カテゴリーをご覧下さい。

寒雷

昨夜、突然戸外で爆発音がしました。思わず腰を浮かしかけたのですが、街は騒ぎにならず、雷だったのだと気がつきました。天上からではなく低い地上から聞こえたような気がしたのですが、それが冬の雷なのだ、と思い返しました。

遠くからごろごろいいながら近づいてきて、稲妻が光り・・・という東京の夏の雷とは違って、鳥取へ赴任した初めての冬、夜中に、雷音とは思えない、単発の轟音に驚かされました。稲妻も光りません。ばちっ、という瞬間的な音がものすごく大きく、雷は放電だと改めて納得できます。タクシーの運転手にその話をしたら、冬の峠越えの最中に野獣の吠え声のような音を聞き、化け物に遭ったかと思ったら雷だった、という体験談を語りました。

しかし日本海沿岸では、冬の雷は雪起こし、または鰤起こしと呼ばれて、季節が順調に進んでいる証のように考えられています。これから本格的な雪の季節、または冬の漁の季節だという意味なのです。そしてその先には美しい春が来る。厳しい自然も順調に廻っていけば、それぞれの恵みをもたらしてくれるのでした。

俳句の季語にも「寒雷」という語があるのですから、以前から冬の雷は各地で聞かれたのでしょう。子供の頃にも、1年に1度くらいは冬に雷を聞いた記憶があります。ただ近年の東京では、夏にはいきなりの大雷雨になったり、寒雷の音も生やさしくない爆発音だったりして、自然が面変わりした気がします。