LED

洗面所の照明の電球が切れました。我が家は蛍光灯も含めて暖色灯で統一していたのですが、もうストックがなくなり、やむなくLED電球を買いに行きました。レジで金額が大きいのに仰天。LED製品は高価であることを忘れていたのです。今までの替え電球のように、気安くは買えないなあと思いながら支払いました。長持ちするとはいうものの、40年も保つ電球なんて、年金生活者にとってはブラックジョークに等しい。ふと、主がいなくなって、電球だけが煌々とついている洗面所を思い浮かべました。

さてソケットにはめて、スイッチを入れたら、あまりに明るい。家事代行さんは、わっ、隅々まで埃が見える、と慌て、私は、毎朝増えてゆく皺に対面することを思って憂鬱になりました。ワット数を下げればよかったかもしれません。

もうLED以外の選択肢は難しくなりました。秋葉原の家具アドバイザーは、読書用にはお奨めしない、と言っていましたが、今度卓上スタンドが切れたらどうしようかと悩んでしまいます。現在は、車のヘッドライトは半々くらいですが、この辺は坂が多いので、坂上からLEDで照らされると、眼がくらんでしまい、なにも見えなくなります。坂上に駐車してLEDを放射されると、老人の眼では坂が登れません。さらに困るのは自転車灯。うねうねくねりながら強烈な光で眼を射られるのは、とても怖い。ライトを下向きにして欲しいと思います。

調べてみると、LEDに健康上悪影響があることは、医師も認めているようです。時速を超えるスピードと同様、生物の限界を超えた非人間性を感じます。エコ一辺倒では困るものもあることを、関係者は記憶していて欲しい、そしてもう一段、技術開発に精を出して欲しい、と思います。

英文学者の感想

和歌文学会第64回大会の講演2本について、中世英文学が御専門の多ヶ谷有子さんから、メールで感想が届きました。他分野の方の観点はたいへんためになります。お許しを得て、転載させて頂くことにしました。なお『狭衣物語』の本文研究については、片岡利博さんの『異文の愉悦―狭衣物語本文研究』(笠間書院 2013)が痛快です。

[豊島先生の「物語中の和歌の増減と表現の異同」は、本文の揺らぎの実態が見えて興味深かったです。それぞれのちょっとした言葉の違いの背後にある心性に想像力が掻き立てられました。そうしたものを言葉にするのは難しいことでしょうが・・・折々、これこそ言いたかったこと、と思える言葉を用いている文章や講演に出会いますと、大げさに言うなら、生きていてよかったと思います。豊島先生のご提示くださった「揺らぎ」を、そのような言葉でお話、または書いてくださる時機が待ち遠しいです。

平家物語の表現」のご講演は、最初から最後まで、文学研究とはこういうものだとしみじみ思いました。言葉をたくさん使わないで、絶妙に、魂の核を揺さぶる覚一本の魅力が、胃の腑に一つ一つ落ちていきました。同時に、源平盛衰記や延慶本に向かう向かい方・読み方もあるのだと思いました。

聞きながら、いくつかのことを思いました。平家物語叙事詩であるとも、そうではないとも言われますが、これが平家物語特有のカタルシスではないか、と思いました。ギリシアの悲劇・叙事詩の核がカタルシスだったように、平家物語に同質のものがあるなら、それも叙事詩といえるのではないか。ギリシア叙事詩の構成要因から外れているからと、これは叙事詩だ、いやそうではない、という議論は、ヨーロッパの作品についてもありますが、どこが重なりあうか、あわないのか、ということが重要な論点になるのだと思いました。

建礼門院の独詠歌の解釈にも心を打たれました。だいぶ以前から、建礼門院には惹かれるものがあったのですが、時折、好意的でない、というより、女を低く見て論じている説明を聞くことがあって、落ち着きませんでした。アーサー王物語について、「グィネビアの弁護」という詩を書いた詩人(ウィリアム・モリス)のように、建礼門院についても納得のいく話がききたいな、と思っています(多ヶ谷有子)]。

臈纈染め

ヘッダーの絵を選んでいたら、亡父が愛妻静子(私の母です)のために描いた、臈纈染めの下絵が出てきました。鉛筆で輪郭を描き、水彩で彩っています。多分、戦地から帰ってきて、茅ヶ崎で暮らしていた数年間に描いたのでしょう。当時の茅ヶ崎は、松林と砂浜とが続き、漁と畑地と療養・避暑のための別荘とがある寒村でした。松ぼっくりは竈の焚きつけに使うので、拾いに行くのが子供の仕事でした。静子は結核療養中でしたが、それなりに主婦の役を果たし、合間に趣味の臈纈染めなどもしていたらしい。

松ぼっくりと新芽とをもつ松の絵は、一見、伝統的な装飾画のよう(奈良絵本の添景の松にそっくり)ですが、茅ヶ崎では身近にあった松の写生をもとにしたと思われます。じつは親の家を整理したときに、これを染めた布も出て来たのですが、下絵の方は最近になって整理した箱の中にあったので、できあがった布が両親合作のものとは知らずに捨ててしまったのです。石榴の実の下絵と、それを染めたスケッチブックの表紙は、大切にとっておくことにしました。カラーの花を大胆にデザインして、切り抜いた下絵も見つかりましたが、静子の病状が悪化して、もう染めることはできなかったようです。

昭和20年に静子が亡くなった時、父は「もう5年もすれば、結核なんかで死なないのに」と言っては麻雀に明け暮れていたそうです。ペニシリンが発明されて感染症に劇的な効果をもたらし、戦後まもなく結核の特効薬も実用化されました。いま免疫の研究が進んで難病治療に期待が高まっていますが、開発した研究者は、「これからは(生存・快復の)欲望を充たす治療ではなく、不安を癒やす治療も必要になる」と言っているとか。さきを見通して努力している人の成果が我々の手に届くまでには、数十年の時間が必要なのでしょう。

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和歌文学会初日

渋谷の國學院大学で開催された、和歌文学会第64大会に出ました。まず図書館で特別展示を観ました。『古今集』2種、『千五百番歌合』、『拾遺集』、『後拾遺和歌抄』、『金葉和歌集』、『新古今和歌集』2種、「風葉集抜書」、「古今集切」2種が出ていました(10/16まで)。和歌の善本は文字がきれいなので、軍記の写本を見慣れている眼にはいい保養です。

午後から講演3本。最初は辻勝美さんの「鴨長明の旅と和歌」。中世近世を通じて長明は、歌人としてだけでなく東海道を上り下りした旅人としてイメージされていた、とのこと。次は豊島秀範さんの「物語中和歌の増減と表現の異同」。『狭衣物語』の諸本4種を比較しながら、和歌の異文や増減について例を挙げ、異同の要因を探る道筋をつけようとしたもの。源氏狭衣と並び称され、和歌に見るべきところがあるとされてきた『狭衣物語』で、なぜこのように和歌がゆれうごくのか、物語内の和歌の機能とは何か、については私も関心があります。

1本60分で3本、というのはやや重いプログラムだったので、3本目に私の番が回ってきた時は、聴衆はかなり疲労気味でした。覚一本平家物語の文体がなぜ感動的なのか、リズミカルだと感じられるのは何故か、多少冒険をしながらお話ししました。内容は来年の機関誌に書くように、とのことでしたが、55分の講演原稿と引用本文とを合わせて20枚、というのは難題です。来春の書き初めはこれで四苦八苦することになりそうです。

懇親会では麦酒片手に、日頃疎遠な人、しばらく会っていなかった人などと挨拶を交わし、重荷を下ろしました。今年の山の半分は、これで越えられたことになります。

叙事に泣く

明日(10月6日)16:20頃から、和歌文学会(於國學院大学渋谷キャンパス2号館)で講演をします。要旨は以下の通り。詳細は和歌文学会のHPをご覧下さい。

平家物語』の表現―「叙事に泣く」ということ―
 かつて『平家物語』の叙事と抒情という問題、中世散文文学における和歌のはたらきという問題を考えたことがあった。早く、中世文学を代表する美意識を新古今的なものと平家物語(もしくは説話文学)的なものの対立ととらえる文学史観があって、その枠組を意識したが、論じ尽くせなかったことが幾つも残った。
 爾来、研究状況は大きく変わった。現在の中世文学研究をふまえて考えるなら、新古今的なものと平家物語的なものは二元的対立ではなく、『平家物語』よりもさらに向こうに対立軸を立てねばならないのではないか。二つの美意識は、『平家物語』諸本群の中に含まれ、その外側に注釈文芸や唱導文芸、室町物語、縁起などの分野が広がった。
 さて『平家物語』研究の現状を見ると、「何が」書かれているかに集中しすぎている観を否めない。文学は、何を語っているかのみならず、どう語っているか(何を語らず、何を隠したかも含めて)が問題でなくてはならない。どのような言葉で語り、どのような推進力を根底に持つのか、そこに作品固有の魅力が由来するからである。
 現代の『平家物語』享受者の多くは、詞章のリズム感と人物たちのけなげさに惹かれるという。その「けなげさ」への感動は、じつは表現の力によるところが大きい。しかし従来繰り返されてきた語りや文体に関する説明は、硬直した部分も多く、なお不十分である。
 和歌文学研究を見て羨ましいのは、一に言葉にこだわって読むことが作業の必須であること、二に詠作年代や作者伝などの個別事情に関する資料が多いということであるが、軍記物語は、史実性を実現するには個別性、具象性を必要としながらも、一般性の保証のためには無名性を必要とするという、矛盾をはらんでいる。その点に注意しながら、『平家物語』独自の表現方法、文体の獲得(それが物語の「成立」である)について考えたい。

源平の人々に出会う旅 第21回「滋賀県・比叡山」

 寿永2年(1183)、北陸を勝ち進んだ義仲は越前国府に布陣し、京都の玄関口となる比叡山の大衆(だいしゅ)に味方に付くよう牒状(手紙)を送ります。比叡山は東塔・西塔・横川の3区域からなっており、東塔・根本中堂が延暦寺の総本堂に当たります。

【東塔・根本中堂】
 牒状を書いた大夫坊覚明(義仲の右筆)は、西塔・黒谷で出家したとされます(『仏法伝来次第』)。以仁王の乱の際、平家に寝返った比叡山法師に対して、奈良法師が実語教を作って罵る逸話を延慶本等が載せていますが、『沙石集』によると、この奈良法師こそ覚明だったようです。なお、黒谷は法然が修行したことでも知られています。

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【東塔・大講堂】
 牒状を受け取った山法師達は、大講堂の庭で僉議を行い、源氏に加担することを決めます。平家の総大将宗盛は都落ちを決意しますが、肝心の後白河法皇を確保できず、三種の神器安徳天皇と共に都を去ります。山法師の性質をよく知る覚明の智略により、源氏軍は無血入京を果たすのです。

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【東塔・無動寺谷】
 比叡山は、『平家物語』の中で最も記事量の多い寺社の1つです。たとえば、根本中堂の南に位置し、別名を南山とも称する無動寺は、『源平盛衰記』には、天台座主明雲が流罪の際に、無動寺や根本中堂を遙かに仰いだとあり、覚一本等には、明雲を奪い返そうとする大衆のうち、無動寺法師乗円律師の童に十禅師権現が憑依したと記されています。

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【西塔・恵亮堂】
 『平家物語』は、安徳天皇以前の帝位争いとして、惟喬・惟仁親王の例をあげます。この時、二宮惟仁親王側で祈祷したのが比叡山の恵亮でした。その結果、惟仁親王が帝位につき、清和天皇となります。この逸話は『曽我物語』などにも載録されています。

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〈交通〉
JR湖西線京阪線坂本駅叡山電鉄八瀬駅
               (伊藤悦子)

閲覧室

久しぶりに大学図書館へ行きました。渋谷駅はいつ終わるとも知れぬ大工事が続き、通路が分からず、バス停まで駅の周囲を1回り半歩きました。図書館棟の空きスペースは学生の居場所として開放され、椅子と机がたくさん置いてありましたが、座席でぐったり寝ている男子学生が多い。まったく無防備、というか、まるまる寝姿をさらしている(居眠りではなく、自宅のベッド上の状態)のにはぎょっとしましたが、もう私は注意しなくてもいい、見ない見えない、と念じて通り過ぎました。

必要があって、平将門の乱承久の乱南北朝の内乱の勉強を始めています。暗くなるまで、日本史関係書の多い閲覧室で、山のような単行本を走り読みしました。予め持って行ったカードの3分の1しか片づきませんでしたが、開架式なので、あちこちで予定にない本も引き抜いて読み、ダイナミックな建武新政見直し論や、『将門記』に関する新資料の報告などを堪能しました。それにしても日本史は、出版物が多い。ファンが多いのでしょうね。

杖を突いているので、行き帰りの電車や食堂で、何人もの女性たちから心遣いを受けました。遠慮しないことにしました。もう何も責務はないから、1人の人間としての慎みだけ守っていればよい。気が楽になりました。静かな閲覧室で、つぎつぎ顕れる新知識に出会った、至福の1日でした。