事の軽重

東京五輪の暑さ対策として、サマータイムの導入を主張している人たちがいるようですが、どうにも理解できません。老代議士たちからは、何かにつけてサマータイムの要望が出ますが、郷愁に駆られてでもいるのでしょうか。

小学校に上がる前後に、進駐軍の指導で(当時、日本は占領下だったのです)サマータイムが実施されたことがありました。その頃は、どこの家にも、その家の標準時を示す柱時計があって、夏の間3ヶ月、1時間早く針を進めました。しかし何かと煩わしい割にメリットがなく、3,4年で廃止されたと記憶しています。

現代のデジタル社会では、その煩わしさと、万一混乱が起こったときの被害の大きさは、当時と比べものになりません。もし明日からサマータイムとなった時、設定変更しなければならない物が一家に幾つありますか?時計だけではない。しかもそれらは、システムとして外部につながっている。

自分が行動する時間だけを考えればいい、という人は未だしも、準備や補助をする人たちへの影響を考えているのでしょうか。そもそも現代では、人体も機械的な時間に慣らして生活リズムを作っています。太古のように、日の出と日没に合わせて生きてはいません。3ヶ月の間疲労が溜まるだけです。

彼らは、なぜ時間を支配したがるのか。かつては、暦と時刻を支配するのは王者の特権でした。まさか、それをやってみたいわけではないでしょうね?

五輪競技のスタートを未明からにして、交通機関その他を当日だけ早朝始業にする方が合理的です。選手には気の毒なようですが、どうせ各国選手は時差の調整をしなければならないのです。直接関係のない国民全てが時計を変える必要はない。事の軽重が逆立ちしている、と言わざるを得ません。

 

人文知の力

福岡伸一さんのコラムを朝刊で読み、共感しました。「人文知の力、忘れていないか」という見出しで、朝永振一郎の『滞独日記』を引きながら、次のように述べています。

「自然は本来、混沌、無秩序で、常に変化し、しかも毎回異なるものだ。それをモデル化し、数式に置き換え、再現性のある法則とするのが物理学だ(科学一般としてもよい)。しかしそれは自然を無理やりそうみなしているにすぎない。その自覚を持つのが科学者のはずだが、多くは自然を分解・分析・定式化することに夢中で、本来の自然に戻ることを忘れている。/芸術には、たわめられた自然を、もとの自然に回復する力がある。これは哲学や文学など人文知にも言えること。(下略)」(朝日新聞2018/08/09「福岡伸一動的平衡」)

「自然」「物理学」の単語を別な語に置き換えれば、学問研究としての文学や教育学にも通用しそうです。理系の学問を極めた人ほど、文系の学問や芸術の必要性をよく知っている。却って文系の私たちが、自分の分野の意義を、他者に説明する必要性を普段からわきまえ、その用意をしているかどうか、自問する必要があるのではないでしょうか。

福岡さんの本は面白そうで、いつも本屋で手に取るのですが、さしあたって買わなければならない本、読んでおく必要のある本を上へ重ねていくと、すぐに限界量に達し、この次ぎにしようか、となってしまっていました。今度はせめて新書でも。

教師たち・その2

中学・高校時代の教師には、リアルな戦争体験者が何人もいました(当時はオジサンのように思っていましたが、未だ30代から40代前半だったのです)。中学の職業家庭の教師は他のクラスでは英語も教えていました。フィリピンで従軍したから英語は喋れる、ということでしたが、生粋の東京育ちなので、「hi」の発音が「し」になる。英語を教わるクラスに同情しました。

高校の古文の教師からは、初年兵で馬の世話をしていた話を聞かされました。ある時、乗ってみろ、とけしかけられ、乗ってみたら馬が突然走り出したそうです。馬は不慣れな人間をよく見抜いていて、手綱を引いても小馬鹿にして言うことを聞かない。大変だと、上等兵が別の馬で追いかけたら、もともと競走馬だったので、興奮してますます走る。馬上にしがみつきながら思いついて、馬の首を両腕で絞めたらやっと止まり、それ以来、馬の首を絞めた初年兵として有名になった、という話でした。

数学のT先生は、問題の解き方も教え方もスマートで、おかげで私は数学が好きになりました。片足をすこし引きずるようにして歩く人でしたが、修学旅行で京都へ行った時、宿に着いたら靴下を脱ぎ、自分で踵を消毒し始めました。思わず目を背けるほどの傷口がざっくりと開き、膿んでいて、これで終日歩いたのか、と吃驚しました。長崎の造船所へ学徒動員され、被爆した時の傷だ、と言われました。言葉も出ませんでした。

その後40年以上経って、クラス会でお目にかかりました。眼光鋭く、かっこよかった数学教師は、ふつうの老人になっていました。ちょっと落胆もありましたが、ともかく古稀を越えられたことを、心の中でお祝いしました。数年前に、鬼籍に入られました。

平家語りを継ぐ

平家物語の語りを肉声で聞くことが難しくなりつつあります。師匠からの口移しで伝承してきた名古屋の検校は、200句ある中の8句しか語れず、現在ただ1人の検校も、東京の公演には滅多においでにならなくなりました。

いま平家語りを、自分の声で継いでいこうとしている方々は、荻野検校(本ブログ7月9日付参照)が校訂した譜本『平家正節』による伝承ですが、津軽藩の武士たちのたしなみとして継承されてきた津軽系と、名古屋の検校の流れを引く名古屋系とに分かれます。前者は館山甲午さんから橋本敏江さんへ、そして国文学者でもある鈴木孝庸さんへと伝承されて、200句語ることができます(語り手はほかにもいます)。後者は、名古屋の検校の指導を受けたことのある、日本音楽の専門家薦田治子さんと地唄演奏家菊央雄司さんが、若手箏曲家たちと共に伝承と復元に努めてきたグループです(近世以降の検校は箏曲も演奏した)。

この秋、両方の公演があるので、未だ平家語りを聞いたことのない方は、聞き比べできる好機です。殊に「敦盛最期」や「宇治川」は両方で語られるようですし、巻九は高校の教科書などによく採られる句が多い巻です。

平家物語の世界 9月8日(土)14:00開演 

        会場:紀尾井小ホール(千代田区紀尾井町6-5) ¥2000

        出演:菊央雄司・田中奈央一・日吉章吾   解説:薦田治子

        演目:祇園精舎より・敦盛最期より・宇治川より・紅葉より・上日

     問い合わせ先:03-3237-0061 紀尾井ホール チケットセンター

 平家物語 卷第九を語る 11月20~22日 会場:江島杉山神社(墨田区千歳1-8-2)
                           出演:橋本敏江門下 鈴木孝庸 入場料:各回¥500 

         演目:20日(火)①18:15 小朝拝・生食・宇治川 

           21日(水)②10:00 河原合戦・木曾最期・樋口被斬           

              ③13:30 六箇度合戦・三草勢揃・三草合戦・老馬

           22日(木)④10:00 一二駈・二度駈・坂落

       ⑤13:30 盛俊最期・忠度最期・重衡生擒・敦盛最期・浜軍・落足
                                               ⑥18:30 小宰相

       問い合わせ先:070-6980-7123 一ツ目弁天会

リズムの哲学

必要があって、山崎正和『リズムの哲学ノート』(中央公論新社)を取り寄せ、川本浩嗣『日本詩歌の伝統ー七と五の詩学―』(岩波書店 1991)と併せて読んでいます。山崎正和には戯曲『世阿弥』『野望と夏草』で注目し、1970年代半ばまでは評論の殆どを追跡していたのですが、その後の政治的発言に違和感を持ち、著書を読んだのは久しぶりでした。

本書はいわば一種の哲学史でもあり、いかにも演劇をやってきた人らしく身体感覚を重視して、「リズム」をキーワードに、世界認識から人間の老いの本質までとらえようとした、大がかりなエッセ―です。「リズム」(著者はリズムを「現象」と言っています)という語は、ここでは幅広い意味で使われ、ときにはこの語でなくても、と思われる行論もありますが、音韻や拍にこだわらず、一つの原理のように考えていく視点は、大いに参考になりました。

世阿弥のいう序破急や、二項対立の思想、鹿おどしの理論(流動→堰き止め→音)などを使って繰り広げられる考察には、共感しました。ただ、最終章で「無常観とはリズムの感覚の派生物であって、(中略)とりわけ必然的に終わりがあることを知る世界観」とするのは、私の理解とはちょっと違うなと思いました。しかし無常観が中世のみでなく現代にも通用する、という考え方は大事です。殊にこの頃の世相では。

第1章の末尾に「リズムは哲学にとってこれまで思いもかけなかった躓きの石になりそう」としながら、それに取り組む自分の仕事が「真の知的な冒険となるか、あるいは老耄の徒労となるかはやってみなければわからない」とあるのを見て、励まされました。臆病風や、老後の平安願望にとりつかれるのはやめよう、と。

蝉の声をあまり聞かなくなりました。2,3年前はこの辺でも、網戸に止まって高らかに鳴く蝉に閉口したのですが・・・小学校や神社の傍では油蝉やみんみん蝉が鳴いているので、はたと思い当たりました。我が家の近辺では、建て替えや切り売りのために新築した家が樹木を植えず、僅かな前庭もセメントで固めてしまうので、蛹が地上へ出られないのではないかと。知人にその話をしたら、じゃ蝉たちは地中で即身成仏ですね、と言うので、一瞬、無数の蝉の形をした仏が、地中にぎっしり埋まっている幻想に囚われました。

かつて真夏に平野神社へ行ったことがあります。桜の木が多い境内には、無数の小さな穴が開いていました。神職に尋ねたところ、蝉が脱皮のために出てくる穴だそうで、朝早く狐がやって来て、蛹の殻が割れるのを待ち受けて食べるのだそうです。身が未だ柔らかく、栄養はたっぷり蓄えているので、狐にとっては極上の朝食なのらしい。

九州の蝉はわしわしと鳴く熊蝉です。TVドラマが、博多の夏のシーンにみんみん蝉を鳴かせていたら興ざめします。広島記念公園で原爆慰霊式典に降り注ぐのも熊蝉の声。楠正成を祀る湊川神社で、楠の枝にびっしり重なって鳴く熊蝉を見た時は、太平記のパワーを目の当たりにしたような気がしました。

蜩は、もう都内で聞くのは難しいでしょうか。世田谷にいた頃は年1、2回は聞くことが出来たのですが。かつて三浦半島に、独りで三浦一族の墓を訪ねた時のことです。雑木林の中にぽつぽつと墓石があり、昼間なのに空から一面覆うような蜩の声―まるで幽鬼の合唱のようで、涼しさを通り越して鳥肌が立ちました。

軍馬の戦争

土井全二郎『軍馬の戦争』(潮書房光人社)を読みました。著者はもと新聞記者で、戦記類に基づくドキュメントを数多く書いている人です。本書も、戦中戦後の兵士の手記や刊行物から抜粋して、「さきの大戦」に徴発され、戦地に送られた馬たち(約50万頭。その殆どは帰ってこなかった)の運命と兵士たちの交流を、綴っています。あの時代に、戦車やトラックでなく、日本軍にとって馬が重要な「兵器」だったとは、私たちには驚くべきことですが、事実だったのです。その馬たちはもともと、農家の貴重な働き手でした。徴発された方にも、全く馬を扱ったことがないのに世話をさせられた兵士にも、そして勿論、馬自身にとっても、理不尽なことでした。

中国や南方で、日本の兵士は馬に乗るか、自分の脚で歩くかして、戦ったのです。つい80年前のことです。本書には眼を疑うような、あるいは思わず憤激に駆られるような挿話が並んでいますが、何度も丸木橋から落ちる盲目の馬を励ましてやっと運んだ荷駄の中身が、部隊長用のウィスキーとパイン缶だったとか、抑留された兵士が馬糞の中の唐黍粒を拾って食べた、という話には、これでも愛国は美しいか、と大声で叫びたくなります。

学生の頃、旅で歩いた田園には、庚申塚やただ「南無阿弥陀仏」と彫った石碑と共に、馬頭観世音の碑があちこちにありました。戦没者慰霊塔も殆ど村ごとにありました。馬頭観音の信仰はこんなにも全国に普及しているのか、と思ったりしましたが、そのわけが今判りました。土地開発が進んだ時代を経て、最近はそんな石碑をあまり見かけなくなったようです。