説話文学会

久々に、仏教資料一色番組でなかったので、説話文学会に出てみました。「判官物研究の展望」というタイトルのシンポジウムです。まずは最近入手したという「義経一代記図屏風」を紹介した小林健二さんが、『義経記』とは別に九郎判官の逸話を語る判官物の系列があること、それらには幸若や古浄瑠璃、能などの芸能の素材が盛り込まれており、中世から近世へと大きな潮流を形づくっていることを述べました。次に鈴木彰さんが『義経記』の研究史をおさらいして、今は受容史研究がトレンドであることを強調し、今後何をやりたいかを述べました。

その後、斎藤真麻理さんの「『御曹司島渡り』と室町文芸」、本井牧子さんの「『義経奥州落絵詞』の形成」、西村知子さんの「『異本義経記』を一例として(『義経記』の変容)」、伊海孝充さんの「判官物の能の手法」といった、パネラー報告が4本並びました。一つ一つは面白いけれど、盛りだくさん過ぎて並置しただけになり、シンポジウムとしての機能はあまりはたらかなかったようです。

義経記』とそれ以外の判官物と2本の流れがあるとするなら、その共通点は何なのか、一方の『義経記』を特徴付けるものは何か等々議論したいことがあって挙手したのですが、有名人たちが次々に持論展開して時間切れ。この頃の学会シンポでのお決まりコースのようですが、その日の話題に突っ込んで深掘りするのがフロアの作法ではないでしょうか。一期一会のシンポなのだから、異なる角度から大きな議論の場に持ち出したい。有名人の持論展開は懇親会でお願いしたいものです。

君の名は?

昨年、区役所が道路脇に置いてある住民の鉢植えを片端から撤去しました。肉屋の前のガードレールに寄せてぎっしり置いてあった鉢は、近所のアパート住まいの女性のものだったそうで、「貰って下さい」という札が出ました。我が家では、匂い菫と擬宝珠の小さな鉢を貰って帰りました。

よく見ると、匂い菫の鉢には、こぼれ種が落ちて芽を出したらしい蔦や雪の下や萩や花酢漿草も同居しています。蔦は切り詰め、花酢漿草は抜き、萩は他の鉢に植え替えました。本命は匂い菫でしたが、親指の爪ほどの大きさだった雪の下があれよあれよと大きくなり、ランナーを出し、ついに菫は咲きませんでした。擬宝珠も葉が茂るばかりで、未だ蕾の気配もありません。ま、雪の下も擬宝珠も、葉が食用になるからいいか、とそのまま育てることにしました。

ところがー植え替えた萩がすくすく伸び始め、枝垂れずに草頭に蕾が出ました。未だ若いから直立するのかと眺めていると、蕾が日ごとに白っぽくなる。白萩かな、それもいいか、と水をやっていたところ、今朝見て吃驚!黄色い小花が群がって咲いているのです。豆科ではありません。記憶にある、これに似た花をあれこれ思い出し、ネット検索したところ、草連玉(くされだま)にそっくりですが、葉先が丸いところが違う。

だれ?あんたは。

そんなつもり

このところ、「そんなつもりじゃなかった」「そんな気持ちはまったく無い」という言訳にうんざりする局面が、遠近ともに多い気がします。じゃどんなつもりだったのか言ってみろ、と問い詰めたくなる、もしくは問い返すのもうんざり、という例も少なくありません。

セクハラは、やった本人の「そんなつもりはない」という言訳は無効だ、ということはもはや常識です。つもりがあってセクハラをしたと認める奴はいない。やられた方が「厭だ」という意思表示をしたのにその行為を続ければ、それがハラスメントであり、被害者の意思表示が鍵なのです。

何の権限も持たない者が「いいお話ですから進めて下さい」と言って、その通り公的資産が不適切な価格で譲渡されたとしたら、そこに重大問題が生じたことは紛れもないでしょう。「そんなつもりで」言ったのでなくとも、そうなる危険を避けるべき立場にあることはわかりきっているからです。

日章旗をローマ字書きにしたタイトルの歌詞は、「そんなつもり」があろうとなかろうと、全くの軍歌です。スポンサーは誰ですか?と訊きたくなる。「優しい母」や「強い父」、「御霊」、「守るべき」などの語彙で、現代の愛国心が歌えますか?愛国心と死のイメージが結びつく感覚は、2018年の日本人にふさわしいですか?

その場で言うべきでない自分の愚痴をあたかも正義のように発言して、反撃されたら泣き、「そんなつもりで使った言葉ではなかった」と弁解する職業人に振り回されたこの1週間ー上記のような国家の大事に比べれば些細なことだと諦めがつくほど、私も器量が大きくない。根は同じ、覚悟もなく自分を誇大評価したかったのではないかしら。

絹と鉄

丸の内の日本工業倶楽部の1室で開かれた会議に出ました。お濠を見下ろす一角です。工業倶楽部のファサードには男女一対の像が乗っています。女性は絹織物を、男性は鉄工業を象徴し、丸の内を見下ろしています。日本の工業は絹と鉄が支えるのだという意味らしい。何だか東欧のようで、ちょっとこそばゆい気がします。

出張で巴里の街を歩いた時、あちこちで日比谷や丸の内を思い出しました。日本の近代都市造りは欧州のなぞりから始まったのだ、と考えさせられました。丸の内の建物の軒や扉には、ちょっとした飾りが付いています。これだけを撮っても楽しい写真集が出来るかも知れません。

会議が終わって外へ出たら、未だ空は薄明るく、風が爽やかでした。東京駅の背後には巨大なビルが建ち並び、灯りがともり始めています。丸の内を歩く女性は、ヒール音が一際高い。1人前の職業人であることは、給料や地位ではなく、各自、己れ自身への要求の高さによるのだ、と心に呟きながら地下鉄に乗りました。

郷土資料の文学

野本瑠美さんの「崇徳院と和歌」(「国語と国文学」2月号)、「手銭家所蔵資料の研究と古典講座」(『地域とつながる人文学の挑戦』島根大学法文学部研究センター)を読みました。特に後者は、私自身の経験と重なる点やそれ以後の学問の変化と引き比べながら考えるところが多く、有意義でした。

手銭(てぜん)家は出雲市大社町の豪商で、地区の要職も務め、藩や出雲大社とも関わりを持ち、美術品・古典籍・生活用具など多くの文化財を所有しており、現在は記念館が設けられ、その記念館と島根大学とが協力して「出雲文化活用プロジェクト」を起ち上げたのだそうです。野本さんは、手銭家所蔵古典籍の調査整理や、それらを活用して2016~17年に計10回開かれた連続講座「古典への招待」に関わることによって得た知見を分かりやすく紹介しています。

地方の有力者・豪商の家族たちは当時、和歌・俳諧儒学などの教養を身につけ、それらの学習会・実作を伴う交歓会を開くことが生活の一環でした。彼等の短冊や研究ノートが、郷土資料として未整理のまま残されていることはよくあります。私も若い頃、鳥取や長野でそれらに遭遇し、充分な関わり方ができなかったことを、少々の後悔と共に思い出します。

江戸から明治にかけて、商家の妻女たちが、結構そういう活動の中心にいたことは重要なことかもしれません。また寛政元年(1789)の手銭家婚礼の棚飾りに、絵入り九巻抄出本『栄花物語』が使われたなどということも、全集本や文庫本でしか古典を思い浮かべられない現代人には、新鮮な印象を与えるのではないでしょうか。

崇徳院と和歌」は、なぜ崇徳院長歌の形式にこだわりを持ったかを考察した論。藤原隆房の『艶詞』に注釈をつけた時のことを思い出しながら、「形式」が権威や関係を左右することを改めて考えました。

久しぶりの京都

芸能史研究会のシンポジウム「〈平家語り〉の展開と継承」に参加するため、昨日、久しぶりに京都へ行きました。梅雨空に台風接近という悪天候でしたが、新幹線の車窓から富士山がシルエットのように見えました。基調講演(『平家物語』諸本の展開と〈平家語り〉)、3本の研究報告、その後のディスカッションとも盛会で、名古屋や東京から聴きに来て下さった方々もありました。質疑応答を通して現在の〈平家語り〉に関する認識度が分かって、互いに有益でした。内容はいずれ機関誌「芸能史研究」に掲載されると思いますので、御覧下さい。

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40年以上前に定宿にしていた御所脇のホテルに、久々に投宿。今日は蒸し暑い、雨模様の天候です。菅原院天満宮神社にお参りしてから、黄檗の万福寺へ行って、普茶料理を食しました。昼餉時を知らせる魚板を僧侶が恭しく打つ姿を、初めて目撃しました。

 

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普茶料理は菎蒻や麩、湯葉などを巧みに料理して眼も楽しませてくれ、結構満腹感が長持ちしました。連れの2人は平等院拝観に行き、私は京都在住の知人と、少々気の重い仕事の相談を済ませました。宇治川上流の杜からは雲が立っています。緑したたる三室戸寺へ行きましたが、16:30には山門が閉まるというので、紫陽花庭園を見渡しただけで時間切れ。鶯と不如帰がしきりに鳴いていました。

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仕事をひとつ終えた安堵感と、久しぶりの京都の一日は十分の御褒美でした。帰京の車中の夕食に志津屋の玉子サンドとカルネと麦酒を買いました。これが大成功。京都はパンも美味しいのです。ふんわり仕上がっただし焼き玉子をはさみ、軽く焼き目をつけて食べやすくしたサンドイッチ、それにこの頃売れっ子という、ハム・玉葱をはさんだカルネは、京都のもう一つの魅力を堪能させてくれました。

写本の形態

佐々木孝浩さんの「平安時代物語作品の形態について―鎌倉・南北朝期の写本・古筆切を中心として-」(「斯道文庫論集」52)を読みました。佐々木さんはこのところ、本のかたちとその内容や格付との関係を追究しています。

平安時代の仮名散文作品について、まず綴葉装の写本(古筆切を含む)の大きさ(六半か四半か)に注目し、次に巻子本の例を検討しています。その結果、物語の格は歴史物語>歌物語>作り物語の順に高いとされていたらしいこと、それゆえ歴史物語が最も巻子装に近いこと、歴史物語の中でも『大鏡』と、『栄花物語』・『今鏡』とに大別でき、後者は『源氏物語』に近いこと、注釈書は巻子本で作られる傾向があったこと等の指摘は、私にとって大いに有益でした。

歌物語には四半が多いこと、作り物語は綴葉装の場合、基本的に六半で作られたが、校訂本文を清書する際は四半で作られる場合もあったこと、『狭衣物語』はついに校訂本文が作られなかったため四半形態が珍しいこと、漢籍の巻子本には墨罫界がよく見出されるが、『大鏡』には鎌倉初期にそういう2例があること等の指摘は、諸本論や長門切研究にも参考になり、有難いことです。

造本や外観から、当時のジャンル意識とその格付けを知り得る、というのは言われてみればなるほど、と思ってしまいますが、数多くの実例を見てきて初めて、断言できることでしょう。書誌学の怖さと楽しさを知り尽くした佐々木さんならでは、です。