久しぶりの京都

芸能史研究会のシンポジウム「〈平家語り〉の展開と継承」に参加するため、昨日、久しぶりに京都へ行きました。梅雨空に台風接近という悪天候でしたが、新幹線の車窓から富士山がシルエットのように見えました。基調講演(『平家物語』諸本の展開と〈平家語り〉)、3本の研究報告、その後のディスカッションとも盛会で、名古屋や東京から聴きに来て下さった方々もありました。質疑応答を通して現在の〈平家語り〉に関する認識度が分かって、互いに有益でした。内容はいずれ機関誌「芸能史研究」に掲載されると思いますので、御覧下さい。

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40年以上前に定宿にしていた御所脇のホテルに、久々に投宿。今日は蒸し暑い、雨模様の天候です。菅原院天満宮神社にお参りしてから、黄檗の万福寺へ行って、普茶料理を食しました。昼餉時を知らせる魚板を僧侶が恭しく打つ姿を、初めて目撃しました。

 

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普茶料理は菎蒻や麩、湯葉などを巧みに料理して眼も楽しませてくれ、結構満腹感が長持ちしました。連れの2人は平等院拝観に行き、私は京都在住の知人と、少々気の重い仕事の相談を済ませました。宇治川上流の杜からは雲が立っています。緑したたる三室戸寺へ行きましたが、16:30には山門が閉まるというので、紫陽花庭園を見渡しただけで時間切れ。鶯と不如帰がしきりに鳴いていました。

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仕事をひとつ終えた安堵感と、久しぶりの京都の一日は十分の御褒美でした。帰京の車中の夕食に志津屋の玉子サンドとカルネと麦酒を買いました。これが大成功。京都はパンも美味しいのです。ふんわり仕上がっただし焼き玉子をはさみ、軽く焼き目をつけて食べやすくしたサンドイッチ、それにこの頃売れっ子という、ハム・玉葱をはさんだカルネは、京都のもう一つの魅力を堪能させてくれました。

写本の形態

佐々木孝浩さんの「平安時代物語作品の形態について―鎌倉・南北朝期の写本・古筆切を中心として-」(「斯道文庫論集」52)を読みました。佐々木さんはこのところ、本のかたちとその内容や格付との関係を追究しています。

平安時代の仮名散文作品について、まず綴葉装の写本(古筆切を含む)の大きさ(六半か四半か)に注目し、次に巻子本の例を検討しています。その結果、物語の格は歴史物語>歌物語>作り物語の順に高いとされていたらしいこと、それゆえ歴史物語が最も巻子装に近いこと、歴史物語の中でも『大鏡』と、『栄花物語』・『今鏡』とに大別でき、後者は『源氏物語』に近いこと、注釈書は巻子本で作られる傾向があったこと等の指摘は、私にとって大いに有益でした。

歌物語には四半が多いこと、作り物語は綴葉装の場合、基本的に六半で作られたが、校訂本文を清書する際は四半で作られる場合もあったこと、『狭衣物語』はついに校訂本文が作られなかったため四半形態が珍しいこと、漢籍の巻子本には墨罫界がよく見出されるが、『大鏡』には鎌倉初期にそういう2例があること等の指摘は、諸本論や長門切研究にも参考になり、有難いことです。

造本や外観から、当時のジャンル意識とその格付けを知り得る、というのは言われてみればなるほど、と思ってしまいますが、数多くの実例を見てきて初めて、断言できることでしょう。書誌学の怖さと楽しさを知り尽くした佐々木さんならでは、です。

 

 

心敬の句表現

伊藤伸江さんから送られてきた「心敬の句表現―「青し」の系譜からー」(「日文協日本文学」 2017/7)を読みました。伊藤さんは、心敬が文明2年(1470)に自作の連歌と和歌に自注を付けた『芝草句内岩橋』を、このところずっと、先輩の奥田勲さんと共に翻刻し注釈をつけています。その中の「ちらしかね柳にあをし秋のかぜ」と「水青し消えていくかの春の雪」、「夕立はすぎむら青き山べかな」の句について、「青し」という語に焦点を当てて考察した論文です。

国歌大観の電子版が出来て以来用例を博捜することが簡単になり、和歌研究は格段に便利になり、視野が広がったのではないでしょうか。殊に連歌では、本歌はもとより、それまでに蓄積されてきた言葉と景物のイメージが、作品の誕生そのものに関わるのだということを、本論文から学びました。

風、夕立、水―透明で動きのある自然の景物が、青という色をまとって変化していく姿をとらえたところに、伊藤さんは心敬の真骨頂を見出しています。そして「見えぬものに色を見ることで、和歌から連歌の一句へと、表現の複合により、短詩化を」可能にしたのだと述べています。

門外漢には読みやすいとは言えませんが、心敬に心酔してその魅力を語ってくれている論文です。巷には平家語りが流行していた1400年代、連歌の世界で人々は、こういうことに専念していたんだなあと、今さらながら思いました。

 

 

取り戻せるものならば

5歳の子が「もうおねがい ゆるして」とノートに書き続けて亡くなった、という新聞記事は涙なくしては読めません。未だ間に合うものならば、三途の川の手前まで追いかけて行って抱きとめたい。連れ戻したい。何より可哀想なのは、自分がいけない子と思い込まされていたことです。

児童相談所は何をしていたのか、と言いたくなります。親に断られたら、退き下がるしかないのか。日本では、「実の親」至上主義の弊害が大きすぎると思います。親にもいろいろ事情があって、必ずしも子のためにならないことはよくあること。自分を守るために子を犠牲にした母親から、荷を軽くしてやって両方を助ける(つまり、子を引き離す)ことはできなかったのでしょうか。

日本では、養子縁組制度が根付かず、養親になるための条件も厳しく設定されていて、施設に入るか親元で囲い込まれるか、になってしまうらしい。かつて日本テレビで放映された「明日ママがいない」というドラマは、その問題を取り上げた意欲作だったのですが、誤解と誹謗に揉みくちゃにされて、一種の禁忌になってしまいました。

密室状態で一緒にいると、親の感情のはけ場がなく、どんどんエスカレートしてしまいます。そういう場面に遭遇したら、とりあえず呼び鈴を押して、親の感情を逸らすこと。しかし今回のように外部から知られなかったら、児相以外に救出者はいません。数ヶ月、数年だけでも預けられるさきがあったらと思います。複数の家庭が関与し、異世代の見守りが可能な、そういう待避所を、児相の切札として登録しておくようなシステムは作れないものでしょうか、間に合ううちに。

戦後近松研究史の一側面

先輩の原道生さんから抜刷を頂きました。「戦後近松研究史の一側面(その4)―「近松の会」を中心に-」(「近松研究所紀要」28)という連載です。いわゆる歴史社会学派の旗手の1人だった広末保の軌跡をたどり、その点検と再評価を試みるもの。

鳥取大学に勤めた時は中・近世担当でしたし、名古屋・宇都宮では古典日本文学は1人ポストだったので、高校教材に採られるような近世文学の本文はだいたい揃え、研究書も元禄三大文豪と秋成・宣長、それに説経浄瑠璃俳諧仮名草子関係は、一応買ってありました。広末保の『元禄文学研究』『近松序説』もあったはずですが、一昨年、親の蔵書を処分した時に一緒に処分したらしい。本というのは、要らないと思って手放すと途端に、必要になるもののようです。

近松の「女の義理」や、人びとのけなげさからくる封建時代の悲劇については、当時は説得されながら読んだ記憶があります。平家物語が「完了した伝統」で、近松が「完了していない伝統」だという仮説は、現代の平家物語研究はどう受け止めるのでしょうか。古浄瑠璃と平家語りの関係も、今ならどう考えるのか。「民衆」と「ジャンル」という要因を殆ど絶対的なものとして重視する、という態度は現在では賛同されないでしょうね。

本論文の注11に指摘されているように、肝心の主・客が顚倒した誤植がずっと見過ごされるほど、広末始め歴史社会学派の文章は歌いあげ、曳きさらって運んでいく力のつよいものでした。ああいう文章を書きたいと思った人は多いはずです。しかし今や、筆先三寸だけで文学史は構成できません。扇動的でない、でもたっぷりと充実感のある筆致の文学史を、書きたいと思います。

 

泣くな女だろ

学会や会議が続き、普段とは異なるエネルギー消費で、ほとほと疲れました。定年後は、徐々にオーラを消していくことを心がけています。老人として街になじむには、現役時代、とっさに発揮できるよう用意していたオーラは邪魔だからです。が、オーラを失いすぎると、何かの時に言動が不釣り合いになって、思わぬ失敗がある。手探りでその折り合い点を探す毎日でした。

学会や会議に出ると、オーラを発揮する瞬発力が必要になることが、どうしても起きます。一昨日の学会会場でも小さな事件があり、昨日の会議でも、事務方の女性が、その場で言うべきではない愚痴を警告にすり替えて発言したので、オーラ全開!彼女は、私に反撃されたら泣き出しました。これは全然駄目です。「男は泣いてもいい、馬鹿にされるだけ。女が泣くと、それまで積み上げてきた議論が全部吹っ飛んで、その場の同情が集まる。泣くな、女なら」というのが私のゼミの40年間の教訓でした。

やれやれ。帰宅してTVをつけ、「コンフィデンスマンJP」と「ヘッドハンター」をぼんやり視ました。前者は詐欺師集団のコミカルドラマ。脚本と配役と大道具が抜群。小日向文世が楽しそうに、東出昌大がはまり役を演じ、大胆細心の詐欺プロジェクトは何度もどんでん返し。後者は、暗い主演男優と目玉がこぼれ落ちそうな女優との組み合わせのドラマ。若い頃私は、男は大石内蔵助、と思っていました、肝心のことは腹中に収めて、大きな目標を実現するものだと。謎めかしたドラマはようやく、転職斡旋業を武器に世を渡るライバル2人の位置を明瞭にし、主役の黙した部分が語られました。

月曜9時10時にこんなドラマを置くなんて、と思っていたのですが、編成の妙が分かってきました。さあ今週もめそめそ言わずにがんばるぞ、という気になれる―仕事は大石内蔵助。泣くな女だろ。

源平の人々に出会う旅 第17回「越前・火打合戦」

 頼朝と和睦をした義仲は北陸道を目指します。都では平維盛・通盛らが義仲討伐のため大軍を率いて北陸に向かいます。

【湯尾峠】
 『源平盛衰記』には、義仲が越前に派遣した仁科・林・富樫らの軍勢は「柚尾ノ峠(湯尾峠)」に布陣し、燧ヶ城を築いたとあります。松尾芭蕉も『おくの細道』でこの峠を越えています。

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【燧(火打)ヶ城址
 燧ヶ城は嶮しい山と川に守られた北陸道随一の城郭であったため、平家軍はなかなか攻め落とせずにいました。燧ヶ城を遠望したであろう芭蕉が「義仲の寝覚めの山か月悲し」(『荊口句帳』)と詠んだ句は有名です。

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【平泉寺中世石畳跡】
 ところが、平泉寺の長吏斉明威儀師が源氏を裏切り平家に内通したため、燧ヶ城はあえなく落城してしまうのです。

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楠木正成公墓塔】
 平泉寺白山神社境内には楠木正成の墓塔があります。正成が湊川で戦死した同日同時刻に、白山衆徒である正成の甥・恵秀律師の前に騎馬姿の正成が現れたため、この地に墓塔を建てたと伝わります。

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〈交通〉
 湯尾峠:JR北陸本線湯尾駅、燧ヶ城址JR北陸本線今庄駅
 平泉寺白山神社えちぜん鉄道勝山駅
              (伊藤悦子)