蹌踉蹣跚

高田馬場のメキシコ料理店で、3人の女子会(年齢幅34年)をやりました。この春定年になる方のご苦労さん会のはずでしたが、あれこれ話がはずむ内に、それは忘れられました。退職記念旅行の話、蔵書処分の話、今の学界の話、理想的な教師とはという話、国際交流の話、幼年時代の宗教体験の話、オトコが気づかない(パワハラとしての)セクハラ兼アカハラの話・・・この話題では何故か同じ人名が違う席で繰り返し出てくる(つまり、弱いと見られた者に繰り返し無礼をはたらく人物がいる)のは残念なことです。

料理も珍しかったし、久しぶりに呑んだワインで、すっかり痛飲しました。帰路は蹌踉蹣跚。楽しい気分のままPCのスイッチを入れたら、ハードディスクのエラ-メッセージが出て、解決しているうちに日付が変わってしまいました。

従妹たち

従妹の一周忌が近いので、別の従妹と連れ立って、お仏壇に線香を上げに行きました。昨夏3人目の孫が生まれて、元気な男の子たちの作り出す、明るく力強い雰囲気が救いでした。生命の鎖をつなげていくのが、死者への最大の貢献なのかもしれないなあ、と思いました。あまりに急な死だったので、1年前が遠い昔のような気持ちと、未だ彼女はどこかにいるような気持ちとが混然としています。まあたらしい位牌の金文字を見て、現実を確かめました。

大井町の喫茶店で、7歳年下の従妹と2時間ほどお喋りしました。16年ぶりです。名刺を貰ったら、「株式会社CST」とあって、自宅で起業したとのこと。CSTとはコミュニケーション・サポート・チームの略だそうで、医療現場の課題解決の支援をしている、専業主婦時代に取っておいたいろいろな資格を活かして、コンサルティングや講演に飛び回っている、と言う。吃驚しました。

亡くなった従妹も腕利きの生保営業ウーマンで、最期まで病院にPCを持ち込んで仕事を続けていましたが、彼女もフォロワー600人のブログを持ち、自分の看取り体験に基づいて、医療・介護スタッフの研修事業を展開しているのだそうです。

叶わないなあ、と思いました。街は暗くなりましたが昨日までのきしきし締め付けてくるような寒さはなく、ぽつぽつ降り出した雨に追われるように、弱虫の私は我が家に帰り着きました。定年まで、とにかく走り続けられたことで精一杯でしたが・・・子育てを終えた女性の度胸とパワーには、勝てません。

時計台

東北新幹線の下りで東京駅を出てすぐ、ビルとビルの切れ目から、服部の時計台がちらりと見える所があります。宇都宮に通勤していた時は、授業は2限目からでしたが、万一の時に間に合わないといけない、と朝6時台の新幹線に乗ることにしていました。朝食のサンドイッチを買って自由席に乗り込み、ほっとするやいなや列車は動き出し、朝日に輝く時計台が一瞬見えて、さあ今日もがんばるぞ、と思ったものでした。

その時見えるのが、朝日に燦めく銀座服部の時計の針だということは、たしかにブランドの効用だったかもしれません。無理な日程でもこなしきって、人知れず恥ずかしくない仕事を続けてやるぞ、と覚悟を新たにする時に、日本の中央の栄枯盛衰を見続けてきた時計台から、無言の励ましを貰ったような気になったのです。

ブランド品がその持ち主を定義するような時代は、とうに過ぎ去ったのではないでしょうか。むしろブランド品が証明しているのは、それを作った職人の技と誇り、それに見合う信念のある生活をしているかどうか、だと思います。見合わない生活をしている者がブランド品をひけらかしている場面くらい、見苦しく、気恥ずかしい光景はない。

一時期から日本人は、金を出せばブランド品が買える、ということと、ブランド品を持つのは上流階級の人間であるということとを混同してしまいました。それこそが伝統の浅い、文化水準が高くない(下流の考え方である)ことを証しているのに。

いじめ

小学5年の二学期に、湘南の茅ヶ崎から東京の小石川へ転校しました。ポマードで頭を固めた担任が、近所の素封家の一人娘(Qさんとしておきましょう)の隣に席を決めてくれました。転校生の面倒をみてあげなさい、という意味だったのでしょう。彼女はクラスの中で特別な存在でした。色が白くて日本人形のようにしとやかで、例えば私たちが足袋かソックスを穿いていたのに、彼女だけはストッキングを穿いていました。

男子たちは、成績優秀なガキ大将(P君としておきましょう)を初めとして聞こえよがしに、あの子に触るとけがれる、とか傍へ寄ると何とか、と言って騒ぐことがありました。ある日、何かの事情で椅子と机を動かし、元へ戻す際に、P君にQさんが今まで座っていた椅子が当たることになり、P君は大騒ぎし、子分の男子たちもはやし立てました。ほんとはQさんに憧れていることが見え見えだったので、私はばからしくなり、P君に「椅子、換えてあげようか」と言いました。P君は一瞬、固まりましたが、ここでNOとは言えません。私がQさんの椅子に座ると、男子たちもしんとなりました。

翌日、私は男子たちと一緒に、担任に呼びつけられて叱られました。言い訳はしませんでした。当時は、無理解な大人に頭ごなしに叱られることは日常茶飯事だったし、Qさんが担任に告げ口したことの方が、私には衝撃だったからです。分かってないんだ、と思いました。そして、「恩ある」Qさんに説明できないことの方が残念でした。

彼女は「お入学」で別の中学へ行き、それ以来、会っていません。私も引っ越して、およそ50年後、年金事務所へ行くついでに旧居のあたりを歩いてみました。大谷石の塀のある、彼女のお屋敷には木立が茂り、「Q」という表札が出たままでした。お婿さんが来たのかなあ、それとも独身かなあ、と思いながら通り過ぎ、数年後に再び通ってみると、更地になっていました。

あれはいじめだったのでしょうか。親切にしてやった転校生までがボスの男子の御機嫌取りをしたとしたら、あんまりでしょう。でも、あのままにしておけば、男子たちはもう騒げなくなったはず、と思う気持ちも未だあります。どっちにしても、もうQさんに謝る機会は無くなりました。

中世芸能史の研究

必要があって、芸能史のおさらいをしています。最近の沖本幸子さんたちの研究から(本ブログ1/29,2/01参照)遡って、岩橋小弥太『日本芸能史―中世歌舞の研究』(日本芸苑社 1951)、林屋辰三郎『中世芸能史の研究』(岩波書店 1960)までたどりつき、改めて往年の名著の偉大さ―いま最も新しく見える研究も、昭和中期にできた枠組の中で進展してきていることは、平家物語などの場合と変わらないと感じました。

網野善彦さんの研究に惹かれていたこともあり、都立高校や国立大学で人権教育に関わったためもあり、そして勿論平家物語研究に必要だったせいもあって、芸能史関係の本は目につけば買っておいたのですが、ある時期からは校務に追われてツンドクのままになっていました。おさらいしながら、芸能の実態はなかなか具体的には掴めず、ジャンルや呼称の区別が一筋縄ではいかないことが分かってきました。

『中世芸能史の研究』の中に1箇所、誤りを見つけました。「答弁と秀句」について述べた(p368)部分、源平盛衰記の鹿ヶ谷事件の場面で、瓶子が倒れた時に後白河法皇が「当弁仕れ」と命じたという例を挙げていますが、これは長門本・延慶本が正しい(源平盛衰記では後白河法皇はこの場にいない)。私には、どうしてこの語句を源平盛衰記にあると勘違いしたのか(両本を盛衰記と同類の本文だと思ったことは正しい)、ということの方が気になります。本書の書かれた時期には、未だ延慶本よりも国書刊行会本の長門本の方が、よく知られていたのではないでしょうか。国語辞典の大きなものは、よく源平盛衰記から引例していましたが、その際の誤りだったのかも知れません。

 

古活字版悉皆調査目録

高木浩明さんの「古活字版悉皆調査目録稿(9)」(「書籍文化史」19)を見ました。今回は静嘉堂文庫の調査が中心です。

静嘉堂には院生時代、『国書総目録』制作のアルバイトで通いました。編集部の質問カードに、実際の古典籍を調べて回答を書き込むアルバイトです。カード1枚¥50でした。静嘉堂は、当時は交通不便で、山の上にあり、冬はしんしんと寒く、夏は藪蚊に刺されまくる所でしたので、行った日にはたくさんのカードをこなそうとがんばりました。書庫の出し入れもたいへんだったようで、司書の丸山さん(書誌学で有名な方です)から、「あんたが門を入ってくるのを見るとぞっとする」と言われたりしました。

高木さんのお手紙には、すでに1080点の古活字版調査データが揃ったこと、川瀬一馬氏の大著『古活字版之研究』の補訂を幾つか果たしたこと国文学研究資料館との共同研究を進めていること、新典社から単著『近世初期出版と学問の世界』をまもなく出す予定であること、今後は書誌解題をつけた古活字版目録を作成したいこと等が綴られていました。

雑誌「書籍文化史」を主宰してきた鈴木俊幸さんの後記によれば、科研費申請に短期的成果を求める制約がより厳しくなってきて、本誌の発行経費を計上することが難しくなり、今号を以て休刊するとのことです。さびしい話です。

静嘉堂は、春先には門前の枝垂桜に鳥たちが戯れ、極楽の風景のようです。夏には藪の中に大輪の山百合が顔を覗かせます。文庫は一般公開されていませんが、美術館の方は公開されており、収蔵品の展示や庭園観賞が楽しめます。 

石窯漁

ある冬の寒い日、鳥取のスーパーの棚に金銀の鱗が輝く魚が2匹、トレイに載って売られていました。体長は優に20cm以上あります。何だろう?金魚にしては大きすぎる。飾り物にしたいように綺麗です。ふと前日の「ニュース645」で、湖山池の石窯漁が報じられていたことを思い出しました。鮒だ!石窯漁法の獲物がスーパーに出るなんて、思いもよりませんでした。

湖山池は周囲18km、日本最大の「池」(汽水湖)です。かつて水辺には、小石を積んで作った窯が、水中に半ば沈んで設けられていました。上部に孔が開いており、そこへ棹や棒を突き立てて水中の魚を窯の奥へ追い込み、捕らえる漁法です。大勢で、半日以上かかって突き続けます。寒い水辺で、効率の悪い方法のようですが、30年前には未だ行われていたのです。

湖山池の鮒は刺身にして、鮒の卵をまぶしたものが名物です。我が家は川魚をあまり食べないので、鮒がこんなに大きくて、貫禄のある魚とは知りませんでした。人間に化けて漁師の殺生を止めさせる説話があるのが、納得できました。今でもあの漁法は保存されているのでしょうか。さすがにスーパーの売り物には出ないでしょうね。