犬化する猫

相手を知る、もしくは話題を引き出すために訊く二者択一の質問があります。海と山とどっちが好きか、清少納言紫式部では、方丈記徒然草では(これはちょっと渋い)等々。最もポピュラーなのが、犬と猫とどっちが好きか?でしょう。

私は猫。犬は全身投げ出して飼い主に寄りかかって来るので、重すぎてつらい。猫は、ふん、そんならちょっと相手してやろうか、という具合に人間と関係をもつのがいい。大きな目でじっと観察しながら結論を顔に出さないところも、安心できます。尤も仔猫が、顔の半分を占めるような目でまっすぐ見つめてくると、ついこちらが動揺してしまいますが。

動物番組が流行っています。ご自慢動画を視ると、猫もこの頃は気質がかわってきたのでしょうか。飼い主が帰宅すると飛んできて、腹を出して身もだえしたりする映像を見せられると、おまえ猫だぞ、と注意したくなります。

ジェンダーとメディア

我が家は親の代から同じ新聞(一般紙では最も進歩的と見られている)を取っているので、ほかの報道と比べたことはありませんが、かつて身の上相談欄があった頃、妻には「不倫」、夫には「浮気」という見出しがつくのを、子供心に不審に思っていました。

日本のフィギュアスケートがようやく注目を集め始めた頃、男子の草分け的選手(現在は指導者になっている)を好意的に取材したインタビュー記事の見出しが、「女でも跳べる3回転をなぜ跳べない」(当時、女性選手で日本人初の3回転を跳ぶ人がいた)となっていて、私は編集デスクに抗議しました。なぜ女性を引き合いに出すのか、と。爾来その男性選手を応援する気になれませんでした(本人に責任はないのでしょうが)。

名古屋の大学に勤めていた頃、この新聞社の主催する市民講座の講師を引き受けたことがあったのですが、大学教授の肩書がついているのに他の講師は「氏」、私だけ(女性は私だけだった)「さん」づけで、主催者に抗議したのですが直してくれませんでした。ところが数日後、再度広告が出たときには「氏」で統一されていたのです。読者からの抗議があったから直したとのことで、後日判明したことは、その「読者」とは知り合いの若手研究者でした(今でもその方には内心恩に着ています)。

その数年後、親の死亡記事に、喪主を務めた私の名前が長女の記載と肩書きがあるのにさんづけになっている。編集部から確認の電話があったので、社会的肩書きもあり、長男なら「氏」なのに長女はどうして「さん」なのか、おたくと個人的つきあいがあるわけではない、と抗議したのですが、駄目でした。しばらくして、この新聞社の死亡記事の敬称は「さん」で統一されました。

「不倫」と「浮気」の使い分けは恐らく無意識で、悪気は無いという言い訳(最も腹の立つ言い訳)が聞こえてきそうですが、半世紀以上経った今でも、日本社会全体に存在している感覚ではないかと思うことがあります。

身元不詳

昨夏、石榴の木の根元に芽を出したものがありました。こんな所に何か播いたっけなあ、と考えて紫式部の実をこぼしたことを思いだし、春になったら植え替えることにしました。秋には葉が落ち、しかし枯れず、春先に大きな鉢の隅に植え替えました。

しばらくして蔓が出ているのに気づき、えっ?と思いましたが、割箸を立ててやると嬉しそうにしっかりしがみつく。何か蔓のあるものを播いたっけ、と考えてみましたが、もしかするとご近所のクレマチスの種子を失敬してきたかも知れない、とそのまま待つことにしました。夏が来て蔓はどんどん伸び、蕾らしきものも見えはするのですが、とにかくはびこることに精を出す。何だか所属している業界のあれこれを連想させられるので、ゆかいでない。

これは野草に違いないとネットで調べ、昼顔という結論に達しました。鳥が運んできたのでしょうか、通常、結実しないとあったのが不審でしたが、ピンクの花が咲くのもわるくないなと、待っても待っても咲きません。

同じ鉢の菊が窮屈そうなので、思いきって抜くことにしました。根が張っていて、やっと引き抜いたら菊もすべてひっくり返ってしまいました。蔓はリース状に編み、吊り鉢に入れたのですが、ふとあまりに青臭いので調べ直したら、葉の形はどうやらへくそかずら。花が咲けばそれでもよかったけど、私の植物勘もすっかりにぶったことを痛感しました。昼顔もへくそかずらも、多年草だとは知りませんでした。

家ごとの「さきの大戦」・配給物資篇

戦後しばらくは配給制度(米の統制)が続き、米は外米が主でした。たまに内地米、大麦(精白してない)や粟、干した杏などもあり、今なら粟も喜ばれたかも知れませんが、我が家では食膳に上らなかったところを見ると、飼っていた鶏の餌になったのかも知れません。外米は米粒が細長くて、赤い縞模様が入っており、ぱさぱさして内地米に混ぜても美味しくありませんでした。手づかみでカレー料理を食べる習慣の国では逆に、日本米はべたついて美味しがられないのです。

同世代ならみんな知っていると思ったのですが、大学時代、山形出身の同級生は外米を知らず、そう言えば博物館で瓶に入っているのを見たことがある、と言ったのでショックを受けました。椰子油が一升瓶で配給されたことがあり、常温でも白く固まって、台所に放置されたままになっていました。

煙草は刻んだ葉が配給され、父は辞書を破いた紙で巻いて吸っていました。布地はべろべろの合繊で、仕立てるのが難しく、私や弟がアラビアのお姫様ごっこをする時のベールになりました。それゆえ今でも化繊は避け、天然繊維100%を購入するのが我が家の習慣です。

戦時中は紙も統制されていて、原稿を揃えていざ出版という時、当局から睨まれると紙が配給されず、出せなかったのです。学界の長老の思い出話に、妙な序文のついた本にはそういう事情があったらしいことを聞かされました。戦後になってからも、GHQの検閲が民間の郵便にも行われ、アトランダムに抜いた手紙を開封して、係官が読んだ後セロファンで封じて配達させました。親族の何気ない手紙がそういうかたちになって届くのを、よく目にしたものです。

用があって渋谷へ出かけました。大工事が続き、行く度に通路が変更されています。

この頃の都心では「エスカレーターにお乗りの際は手すりにおつかまり下さい」という注意が出ています。かつては「右側を歩行者のためにお空け下さい」という札が出ていて、利き手が右の私は、乗り降りにあぶない思いをさせられました。1人乗りなのに押しのけて歩こうとする人もいて、人生にそんなに急ぐことがあるのか、と一喝したい時もありました。文部広報に、急ぐ人のための思いやりだと褒めちぎるコラムが載っていて、憤慨したこともあります。エスカレーターを急いで歩けるような強い人は階段を使えばいい、もともとエスカレーターは弱者のために始まったのだからです。ラッシュの時など片側が空いたまま動いている(つまり半分の人数しか運んでいない)梯を見ながら、ものごとの本質を取り違えている、と思いました。

パラリンピックのための都市設計がこれから進むでしょうが、ちょっと弱者、のことを考えるのが必要だと思います。ユニバーサルデザイン、と呼ぶのでしょうか。

雨が降っているので、ヒカリエで蜂蜜2瓶を買って早々に帰りました。蜜柑とそよごの蜜です。そよごは、鳥たちが好む実の生る木だとは知っていましたが、蜜も採れるとは知らなかったので、朝のヨーグルトに混ぜる試食の日が楽しみになりました。

夕方、街の端から端まで跨ぐ虹が架かりました。子供の頃、虹の脚の下には金貨が埋まっているという童話を読んだので、その呪文「虹、虹、消えるな太鼓橋、私が行くまで届くまで」をつい唱えてしまいます。金貨を手に入れたかどうか、童話の結末は忘れてしまいました。

蕎麦屋の代替わり

久しぶりに小石川へ行きました。昼頃、用が済んだので、大黒湯の隣の蕎麦屋に入ってみました。親の家にいた頃、よく入った蕎麦屋です。美味しい店でしたが後嗣ぎの息子に嫁さんが来て、大きな水車を店の前に据えたり、パック入りの年越し蕎麦を売り出したりして味が落ち、爾来入ったことがなかったのです。

息子夫婦も年を取り、味は平均的な蕎麦屋になっていました。勿論、水車は外され、しかし煤けた天井や壁の飾り物は先代のままでした。本郷は店の入れ替わりが激しいのですが、この辺は50年前の肉屋、和菓子屋、呉服屋、接骨院などなど未だ看板を上げています。代は替わったのでしょうし肉屋がとんかつ屋になったりはしていますが・・・蕎麦屋もサラリーマンの昼食で繁盛しているらしい。店を出てふり返ったら、立看板に「大正十一年創業」とチョーク書きしてありました。

用務は、初月給のときに作った銀行口座を閉めに行ったのです、休眠口座を国に狙われるのが厭なので。学部時代の母校が近くにありますから年1回くらいは未だ来るかも知れませんが、10代20代を過ごした小石川の街も、こうして遠くなり始めました。

風になる

肉親を亡くした時、教え子の1人から「自分も姉を亡くしたときこの詩に慰められました」という手紙と共に、1枚のカードが送られてきました。それには英語で、

Do not stand at my grave and weep,

で始まる短い詩が印刷されていました。死者が、自分は風になって、そこらじゅうにいるよ、と遺された者に告げる詩です。シンプルな表現がしみじみと身にしみました。ささやくように、呟くように、幽明界の合間から話しかけてくる。邦訳もついていたと思いますが、英文の方が率直、平明な感じが遺族への思いやりにふさわしい。

東北大地震の後、この詩が作曲され、オペラ歌手がヴェルカント唱法で、ジェスチャーいっぱい、目をむいて歌うのを見て、ちがうちがう、と叫びたくなりました。耳元でささやくか、風の中から聞こえる詩なんだ、と抗議したい気持ちでした。

今はもう慣れたので(歌手も前ほど力まなくなった)、あれは別の歌曲だという気になりました。東北大地震の後に、地鎮という行為がほんとうにあるんだと実感したのは、白鵬の土俵入りと羽生結弦の「花は咲く」のスケーティングでした。横綱白鵬の土俵入りを観客が拝んだ話は有名ですが、羽生結弦の力をこめたステップと、やさしく大地(実際は氷面ですが)を撫でるしぐさに、反陪を踏む三番叟を連想しました。かのオペラ歌手も、歌い始めた当初は、大地の神を圧倒する構えだったのかも知れません。