身元不詳

昨夏、石榴の木の根元に芽を出したものがありました。こんな所に何か播いたっけなあ、と考えて紫式部の実をこぼしたことを思いだし、春になったら植え替えることにしました。秋には葉が落ち、しかし枯れず、春先に大きな鉢の隅に植え替えました。

しばらくして蔓が出ているのに気づき、えっ?と思いましたが、割箸を立ててやると嬉しそうにしっかりしがみつく。何か蔓のあるものを播いたっけ、と考えてみましたが、もしかするとご近所のクレマチスの種子を失敬してきたかも知れない、とそのまま待つことにしました。夏が来て蔓はどんどん伸び、蕾らしきものも見えはするのですが、とにかくはびこることに精を出す。何だか所属している業界のあれこれを連想させられるので、ゆかいでない。

これは野草に違いないとネットで調べ、昼顔という結論に達しました。鳥が運んできたのでしょうか、通常、結実しないとあったのが不審でしたが、ピンクの花が咲くのもわるくないなと、待っても待っても咲きません。

同じ鉢の菊が窮屈そうなので、思いきって抜くことにしました。根が張っていて、やっと引き抜いたら菊もすべてひっくり返ってしまいました。蔓はリース状に編み、吊り鉢に入れたのですが、ふとあまりに青臭いので調べ直したら、葉の形はどうやらへくそかずら。花が咲けばそれでもよかったけど、私の植物勘もすっかりにぶったことを痛感しました。昼顔もへくそかずらも、多年草だとは知りませんでした。

家ごとの「さきの大戦」・配給物資篇

戦後しばらくは配給制度(米の統制)が続き、米は外米が主でした。たまに内地米、大麦(精白してない)や粟、干した杏などもあり、今なら粟も喜ばれたかも知れませんが、我が家では食膳に上らなかったところを見ると、飼っていた鶏の餌になったのかも知れません。外米は米粒が細長くて、赤い縞模様が入っており、ぱさぱさして内地米に混ぜても美味しくありませんでした。手づかみでカレー料理を食べる習慣の国では逆に、日本米はべたついて美味しがられないのです。

同世代ならみんな知っていると思ったのですが、大学時代、山形出身の同級生は外米を知らず、そう言えば博物館で瓶に入っているのを見たことがある、と言ったのでショックを受けました。椰子油が一升瓶で配給されたことがあり、常温でも白く固まって、台所に放置されたままになっていました。

煙草は刻んだ葉が配給され、父は辞書を破いた紙で巻いて吸っていました。布地はべろべろの合繊で、仕立てるのが難しく、私や弟がアラビアのお姫様ごっこをする時のベールになりました。それゆえ今でも化繊は避け、天然繊維100%を購入するのが我が家の習慣です。

戦時中は紙も統制されていて、原稿を揃えていざ出版という時、当局から睨まれると紙が配給されず、出せなかったのです。学界の長老の思い出話に、妙な序文のついた本にはそういう事情があったらしいことを聞かされました。戦後になってからも、GHQの検閲が民間の郵便にも行われ、アトランダムに抜いた手紙を開封して、係官が読んだ後セロファンで封じて配達させました。親族の何気ない手紙がそういうかたちになって届くのを、よく目にしたものです。

用があって渋谷へ出かけました。大工事が続き、行く度に通路が変更されています。

この頃の都心では「エスカレーターにお乗りの際は手すりにおつかまり下さい」という注意が出ています。かつては「右側を歩行者のためにお空け下さい」という札が出ていて、利き手が右の私は、乗り降りにあぶない思いをさせられました。1人乗りなのに押しのけて歩こうとする人もいて、人生にそんなに急ぐことがあるのか、と一喝したい時もありました。文部広報に、急ぐ人のための思いやりだと褒めちぎるコラムが載っていて、憤慨したこともあります。エスカレーターを急いで歩けるような強い人は階段を使えばいい、もともとエスカレーターは弱者のために始まったのだからです。ラッシュの時など片側が空いたまま動いている(つまり半分の人数しか運んでいない)梯を見ながら、ものごとの本質を取り違えている、と思いました。

パラリンピックのための都市設計がこれから進むでしょうが、ちょっと弱者、のことを考えるのが必要だと思います。ユニバーサルデザイン、と呼ぶのでしょうか。

雨が降っているので、ヒカリエで蜂蜜2瓶を買って早々に帰りました。蜜柑とそよごの蜜です。そよごは、鳥たちが好む実の生る木だとは知っていましたが、蜜も採れるとは知らなかったので、朝のヨーグルトに混ぜる試食の日が楽しみになりました。

夕方、街の端から端まで跨ぐ虹が架かりました。子供の頃、虹の脚の下には金貨が埋まっているという童話を読んだので、その呪文「虹、虹、消えるな太鼓橋、私が行くまで届くまで」をつい唱えてしまいます。金貨を手に入れたかどうか、童話の結末は忘れてしまいました。

蕎麦屋の代替わり

久しぶりに小石川へ行きました。昼頃、用が済んだので、大黒湯の隣の蕎麦屋に入ってみました。親の家にいた頃、よく入った蕎麦屋です。美味しい店でしたが後嗣ぎの息子に嫁さんが来て、大きな水車を店の前に据えたり、パック入りの年越し蕎麦を売り出したりして味が落ち、爾来入ったことがなかったのです。

息子夫婦も年を取り、味は平均的な蕎麦屋になっていました。勿論、水車は外され、しかし煤けた天井や壁の飾り物は先代のままでした。本郷は店の入れ替わりが激しいのですが、この辺は50年前の肉屋、和菓子屋、呉服屋、接骨院などなど未だ看板を上げています。代は替わったのでしょうし肉屋がとんかつ屋になったりはしていますが・・・蕎麦屋もサラリーマンの昼食で繁盛しているらしい。店を出てふり返ったら、立看板に「大正十一年創業」とチョーク書きしてありました。

用務は、初月給のときに作った銀行口座を閉めに行ったのです、休眠口座を国に狙われるのが厭なので。学部時代の母校が近くにありますから年1回くらいは未だ来るかも知れませんが、10代20代を過ごした小石川の街も、こうして遠くなり始めました。

風になる

肉親を亡くした時、教え子の1人から「自分も姉を亡くしたときこの詩に慰められました」という手紙と共に、1枚のカードが送られてきました。それには英語で、

Do not stand at my grave and weep,

で始まる短い詩が印刷されていました。死者が、自分は風になって、そこらじゅうにいるよ、と遺された者に告げる詩です。シンプルな表現がしみじみと身にしみました。ささやくように、呟くように、幽明界の合間から話しかけてくる。邦訳もついていたと思いますが、英文の方が率直、平明な感じが遺族への思いやりにふさわしい。

東北大地震の後、この詩が作曲され、オペラ歌手がヴェルカント唱法で、ジェスチャーいっぱい、目をむいて歌うのを見て、ちがうちがう、と叫びたくなりました。耳元でささやくか、風の中から聞こえる詩なんだ、と抗議したい気持ちでした。

今はもう慣れたので(歌手も前ほど力まなくなった)、あれは別の歌曲だという気になりました。東北大地震の後に、地鎮という行為がほんとうにあるんだと実感したのは、白鵬の土俵入りと羽生結弦の「花は咲く」のスケーティングでした。横綱白鵬の土俵入りを観客が拝んだ話は有名ですが、羽生結弦の力をこめたステップと、やさしく大地(実際は氷面ですが)を撫でるしぐさに、反陪を踏む三番叟を連想しました。かのオペラ歌手も、歌い始めた当初は、大地の神を圧倒する構えだったのかも知れません。

空飛ぶ花

近くに大小2軒の花屋があります。小さい方の花屋では時々おまけをつけてくれることがあって、鶏頭の苗を買ったら珍しい色のカーネーションを1本、つけてくれました。秋らしい、錆朱色の花です。「コロンビアから来たんだ、カーネーションはコロンビア産が一番!」と店の主人が言います。

この頃大きな方の店で八重咲きの花を買うと、開かずに芯から腐っていくことが多くて、管理がわるいと文句を言ったことがありましたが、そもそも海外から来ていたのでは、鮮度が昔とは違うのでしょう。パーティや講演会場の飾り花なら、1日もてばいいわけです。

土用の丑の日の前には台湾から大量の鰻が空輸されますが、水なしで段ボールに生きたまま詰めて搭載するのだと聞いたことがあります。切り花もそうでしょう。国内でも、市場に出す時は、ぴんぴんだと花首が折れたりするので、わざと萎れ気味の状態で輸送するそうです。仕入れてきた花たちが、夜中の店先でざわざわと生き返っていく音を聴くのは、花屋として至福のときーそういう投稿短歌を読んだことがありました。

近世の幸若舞

須田悦生さんの「「女舞」と小田原・江戸の桐座ー近世幸若舞のゆくえー」(「伝承文学研究」66)を読みました。若い頃は芸能史にも目を配っていたのですが、最近は手が回らなくなっていたので、幸若舞の近世(しかも関東で)の生態を初めて知りました。中世末期、相模地方には多くの舞大夫がいたが、その一部は近世になって小田原藩主に保護され、桐座という歌舞伎小屋を持ち、近世中期には女舞という芸能を看板としており、江戸にも同様の桐座があったというのです。彼女たちの得意演目には、幸若舞と全く同じではないものの、大鼓を使った「馬揃」「那須与市」という謡い物があったらしい。頭には天冠をつけ華麗な大口を穿き、中啓を持って舞ったようで、今も福岡県の大江に民俗芸能化して残る幸若舞とはかなり異なるようです。

須田さんは福井県の御出身で、静岡県立短大にお勤めの頃、福井県史編纂に尽力され、幸若舞の歴史を執筆されました。丹念なフィールド調査と郷土資料を駆使した、地に足のついた研究で、芸能史はまさにこうでなくては(事実を忠実に追っていくべき)と思いました。中世の幸若を軍記物語享受の一形態として、あるいは武士社会で愛好された芸能としてのみ見ていたのでは、近世に変容し明治まで続いてきた「武家の物語」の深奥を照らし出すことはできない、と痛感しました。