社会老年学

大学図書館に用があって出かけ、新着図書のコーナーで『老いとはなにか―副田義也社会学作品集Ⅲ』(東信堂)という本を見つけて、拾い読みしました。トオマス・マンの小説「ヴェニスに死す」や長谷川町子の漫画「いじわるばあさん」(私も全巻揃えて愛読しています)の作品分析など、多才ぶりを見せる評論も面白かったのですが、社会老年学という分野の用語や発想に、何度も「目から鱗」という思いをしました。

例えば「ラベルとしての老人」―定年直後、老人扱いされることに慣れることができず(婦人警官や民生委員や区役所の「老人扱い」が、あまりに自分の現実と乖離していて)、一念発起して「年寄りになる」勉強を始めた際の感覚が蘇りました。肉体は老いつつ精神の老いはそれに遅れるため、アイデンティティが2元化してしまう―何とか肉体の老いを遅らせてその差を縮めることが、目下の私の解決法です。

「権利主体としての老年範疇」、「排除客体としての老年範疇」、さらに「扶養客体としての老年」というタームで考察される問題の新鮮な観点―権利主体云々は恩給・年金制度を、排除客体云々は隠居制度を考えるために使われていますが、新憲法が戸主権を否定したことから隠居や扶養の問題が変化した、という指摘には驚きました。1963年の老人福祉法の制定以来、老人は過去の人、2級市民と位置づけられたのだという指摘にも吃驚。「下向普及」(年金制度)・「上向普及」(福祉制度)のどちらもない社会は、弱者にスティグマを刻印してしまう、という指摘にも驚いたり肯いたりでした。

異なる分野のいい研究成果を見ると、なるほどこういう概念や用語を使えば巧く問題をすくい取れるのか、と感心させられることがあります。尤も、ここで取り上げられた問題は、今の私にとって、感心しているばやいではない、ことばかりでした。

 

夕方、根津美術館へ廻って、「食を彩った大皿と小皿」及び「舞の本絵巻」の展示を観ました。後者は「築島」「静」「高舘」の3点が出ていましたが、時代も形式もそれぞれ異なっていて、勉強になりました。前者は大小の器の釉薬の和らかさ、豊かさに癒やされました。自分が保存管理しなければならない親の遺品である陶磁器を手放したので、自由な気持ちになって、あれはこう使いたい、これに酒肴を載せて一杯やりたい、などと楽しむことができたのです。展示は9月3日まで。

29年度奨学生の専攻テーマ

今年度採用の奨学生10名が確定しました。下記は各人の専攻テーマです( )内に専攻分野を鍵語で示しました)。いずれ将来のことを語り合える日が楽しみです。

修士課程:

(基礎文化研究)弥生墳丘墓にみる日本海沿岸部における地域間交流

(学校教育)スクールソーシャルワーカーが学校にもたらす影響についての研究

(人文学)『李卓吾先生批評三国志』所収「読三国志答問」の研究

(社会文化学)日本の労働組合における社会運動ユニオニズムの応用に関する検討

博士課程:

(学校教育学)「子ども・若者の声」を育成する市民性教育の構造と実践方略

(総合教育学)ドイツ民衆教育における教養理念の史的展開―民衆図書館を中心に

(言語文化)現代イラン知識人にみる神秘主義的思想の特質の研究

(人文公共学)モンゴル国カザフ人の牧畜文化にみる装飾行為の重要性とその変遷

(仏文学)20世紀フランス文学およびシュールレアリスム周辺の作家研究

(総合科学)水族館の社会教育的な機能と日本人の水族館像

 

なおご本人からの投稿があれば、実名その他個人情報を含む自己紹介(600~800字程度)をこのブログに掲載できます。

投稿方法などは世話人にお問い合わせ下さい。meisyokai@gmail.com

高校野球

高校野球が始まりました。東京育ちは、代表校とあまり縁のない場合が多いので、盛夏名物ともいえる熱狂とはやや距離があります。地方勤務のおかげで、贔屓する対象ができ、ベース1周したら1点、くらいの知識しかない私でも、関心を持てるようになりました。かつての赴任地、鳥取、栃木、愛知、そして父祖の地福岡の順で応援します。

鳥取を離任するとき、学生から「鳥取へ来てよかったことは?」と質問され、「高校野球で応援する楽しみができたこと」と答えたのですが、けげんな顔をされました。夏休みに帰京して東京版のスポーツ欄を見たら、東京代表校の監督がインタビューで「初戦は楽に勝ちたい。例えば山陰の代表校なんかと」と話し、初戦で鳥取代表とぶつかって敗退、痛快でした(鳥取代表は2回戦で、当時の天理に当たって敗退しました)。

鳥取は、代表校になるための試合数が一番少ない県です。しかも毎年、代表が入れ替わります(一強がない)。進学校が代表になることも珍しくありません。あれが去年の甲子園エースですよ、と指さされる学生が、ごくふつうに大学の国語科にいたりします。高校野球の本質はこうでありたい。文武両道―10代までは、それが理想ではないでしょうか。

変わりゆく田園風景

学生時代の旅行はたいてい夏休みでしたから、一面の青田風景でした。未だ大半の道路は舗装されておらず、青田の中に一筋白い土埃が走るのを目印に、バス通りを見つけました。あちこちで青田と農家の合間に咲く濃い黄色の花むらが印象的だったので、尋ねると、菊芋という植物だと分かりました。帰宅後その話をしたら、何故か親の顔がふと曇りました。後年、再びその話が出た時になって、「あれは、戦争中、根を食料にするため強制的に植えさせられたのだ」と言うのです。そういえば幼年時代を過ごした茅ヶ崎の砂地でも、道の脇にひょろひょろ咲いていたのでしたが、20年以上経ってなお、戦争の遺物が日本の田園を彩っていたとは驚きでした。その後、観賞用に品種改良された八重咲きやオレンジ色のものが庭に植えられているのも見かけましたが、さすがに平成に入ると、食用の菊芋を見かけることは少なくなりました。

かつて田圃の一角には一握りの草花が植えてあって、夏の風景に鮮やかな色を添えていました。仏壇に上げる花だったのでしょうが、車窓からそれらを見るのは、出張や調査旅行のひとときの楽しみでした。高度成長の後、列島改造が叫ばれる頃から田圃の花も見かけなくなりました。機械で稲作をするようになったからでしょうか。

改めて菊芋をネットで調べてみて、近年は糖尿病患者のための甘味料として栽培され、特産地を目指している地域もあることを知りました。除虫菊や煙草が、ある地域にとって思い出の風景に欠かせない要素であったように、時代につれて心の田園風景も変わってゆくことになるのでしょう。

ピーマン

ピーマンが好きになれません。油で揚げるか刻んで炒め物にすれば食べられますが、あの匂いと、ざくざくした肉厚の食感が苦手です。獅子唐は好きなのですが。

学生時代、ユースホステルを使って全国を歩きました。未だビジネスホテルなどは普及していない頃です。少し到着が遅くなって友人と2人で松江の川沿いを歩いていると、後ろから自転車で追っかけてきた人がありました。「あんたたち、その格好だとYHに泊まるんだろうけど、よしなさい!あそこはひどすぎる」と言うのですが、私達には宿を変える知恵もお金もありません。「まあ、行ってみます」と礼を言って別れました。お寺の経営するYHで、風呂は遠く離れた銭湯へ、夕食は赤い色のついた山盛りの御飯だけでした。翌朝、本堂の縁側から井戸端へ下りて顔を洗いましたが、住職から「仏様の前に下駄を脱いだ奴は誰だ!」と怒鳴られました。朝食は御飯と茄子の味噌汁と、そして今でもありありと目に浮かぶのですが、輪切りにした、さしわたし12cmはあろうという生のピーマン!植物図鑑で見る花式図そのものでした。勿論、マヨネーズとかおかか醤油とかがついてはいません。せめて塩でもあれば食べられたかも知れませんが、卓上には何もなし。住職が仁王立ちになって、「仏様から頂いた物を残す奴はどいつだ!」と怒鳴っています。悪夢のようでした。

その後、島根国体があって、YHは建て直されたようですから、今はもうよくなっているのでしょう。あの体験は、ピーマンに関するトラウマになりました。

グリーンカーテン

菊坂を下りていくと、葡萄やあけびでグリーンカーテンを作っている家が1軒あります。今年は時計草も植えられ、初夏に花が咲き、いまは円い実がつやつや光りながら幾つも下がっています。よそながら豊かな眺めです。

店に出る葡萄は緑か紫一色ですが、自然に熟すと緑、海老茶、臙脂、紫とさまざまなグラデーションが美しく、色鉛筆で描いてみたくなり、見飽きません。尤もこの家では、晩秋に棚の上で乾葡萄になっている房の方が多いようです。

時計草は、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の中に、貧しいお針子が徹夜で刺繍しているドレスの模様として出てきます。子供の頃日本語で読み、高校の授業では原文で読まされました(名物教師でしたが、教科書は早く済ませてしまい、原文で各国の短編小説を読ませました。教育委員会には内緒だったようです。PODだのCODだのを引きました)。おかげでpassionには2通りの意味があり、英国では花心を時計の針でなく十字架に見立てて、受難の花と呼んでいることを知りました。それより以前、岩波の少年文庫で砂漠で迷子になった少年の冒険譚(もう題名を忘れてしまった)を愛読していましたが、地を這う時計草の実を食べて餓死を免れる場面が印象に残り、ずっとどんな味だろうと思っていました。市販のパッションフルーツソースは濃厚に甘い。あの家のグリーンカーテンの実も、まもなく色づき始めるでしょう。気にしながら、毎週通っています。

しっかり

当今、政治家がやたらに「しっかり」「しっかりと」を連発するのにうんざりしています。新閣僚の中には、30秒足らずのインタビューに4回も発した人がいました(望んで党務へ移った人が、40秒くらいのコメントに1回も使わず、具体性のある言葉で応対したのには、いささか好感を持ちました)。「しっかりやります」では、重職に就いた際のコメントとしては何も言っていないのに等しい。今後、政治家諸君にはこの語を禁句にして、代わる言葉を自前で調達して欲しいと思います。インタビューアーの方も「どういうふうに、何を、しっかり?」と問い返しては如何。

「~しようではありませんか」というフレーズも、もとは共産党系から始まった言い回しだったと思いますが、野党や市民運動家に言われるのはいいが、政権側から言われると、「どうして、あんたと?」と突っ込みたくなります。

実務の技量と知恵は官僚が磨く。政治家は理念と説明力を向上させて欲しい。そして将来を見通す能力は、両者に必要です。