グリーンカーテン

菊坂を下りていくと、葡萄やあけびでグリーンカーテンを作っている家が1軒あります。今年は時計草も植えられ、初夏に花が咲き、いまは円い実がつやつや光りながら幾つも下がっています。よそながら豊かな眺めです。

店に出る葡萄は緑か紫一色ですが、自然に熟すと緑、海老茶、臙脂、紫とさまざまなグラデーションが美しく、色鉛筆で描いてみたくなり、見飽きません。尤もこの家では、晩秋に棚の上で乾葡萄になっている房の方が多いようです。

時計草は、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の中に、貧しいお針子が徹夜で刺繍しているドレスの模様として出てきます。子供の頃日本語で読み、高校の授業では原文で読まされました(名物教師でしたが、教科書は早く済ませてしまい、原文で各国の短編小説を読ませました。教育委員会には内緒だったようです。PODだのCODだのを引きました)。おかげでpassionには2通りの意味があり、英国では花心を時計の針でなく十字架に見立てて、受難の花と呼んでいることを知りました。それより以前、岩波の少年文庫で砂漠で迷子になった少年の冒険譚(もう題名を忘れてしまった)を愛読していましたが、地を這う時計草の実を食べて餓死を免れる場面が印象に残り、ずっとどんな味だろうと思っていました。市販のパッションフルーツソースは濃厚に甘い。あの家のグリーンカーテンの実も、まもなく色づき始めるでしょう。気にしながら、毎週通っています。

しっかり

当今、政治家がやたらに「しっかり」「しっかりと」を連発するのにうんざりしています。新閣僚の中には、30秒足らずのインタビューに4回も発した人がいました(望んで党務へ移った人が、40秒くらいのコメントに1回も使わず、具体性のある言葉で応対したのには、いささか好感を持ちました)。「しっかりやります」では、重職に就いた際のコメントとしては何も言っていないのに等しい。今後、政治家諸君にはこの語を禁句にして、代わる言葉を自前で調達して欲しいと思います。インタビューアーの方も「どういうふうに、何を、しっかり?」と問い返しては如何。

「~しようではありませんか」というフレーズも、もとは共産党系から始まった言い回しだったと思いますが、野党や市民運動家に言われるのはいいが、政権側から言われると、「どうして、あんたと?」と突っ込みたくなります。

実務の技量と知恵は官僚が磨く。政治家は理念と説明力を向上させて欲しい。そして将来を見通す能力は、両者に必要です。

源平の人々に出会う旅 第8回「神奈川県・石橋山の戦い」

 治承4年(1180年)8月、ついに頼朝は挙兵、伊豆の山木兼隆館に夜討をかけ勝利を収め、続いて大場景親を討つべく石橋山(小田原市)に布陣します。

【佐奈田霊社(与一塚)】
 石橋合戦で特に活躍したのが佐奈田与一です。岡部弥次郎を斬った後、景親の弟俣野五郎を組み伏せますが、付着した岡部の血で刀が鞘から抜けず討たれてしまいます。その場所は「ねじり畑」と呼ばれ、現在はみかん畑が広がっています。『源平盛衰記』は与一が病中であったとしますが、そのためか味方を呼ぶ声を出せなかったという伝承があるようです。与一を祀る佐奈田霊社は喉の病気平癒祈願所として知られ、境内には「与一塚」碑や与一の「手附石」があります。

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文三堂】
 与一の幼少期から仕えていた文三家安も、与一の後を追って討死します。狂言『文蔵』は、この文三家安のことで、太郎冠者が食べた食べ物の名前を思い出させるために、長々と石橋合戦のストーリーを語る話です。

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【鵐の窟(しとどのいわや)】
 源氏の敗色が濃くなり、頼朝は土肥杉山の「鵐の岩屋」という谷にあった大きな伏木の穴に主従7人で隠れます。梶原景時が頼朝を見逃したエピソードは有名です。
 鵐の岩屋伝説地は真鶴と湯河原の2ヶ所にあります。真鶴港付近にある鵐の窟は、御堂と赤い橋が目印です(写真右が鵐の窟)。

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【岩海岸】
 頼朝は杉山から真鶴に向かいますが、眼下には敵軍に放火された民家が広がります。この時、土肥実平は「土肥に三の光あり」と舞を舞って頼朝を励ましますが、その場所が「謡坂」とされます。頼朝は岩海岸から舟に乗り、安房国を目指します。海岸の高台に「源頼朝船出の浜」碑が建っています。

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〈交通〉
JR東海道本線根府川駅早川駅真鶴駅
              (伊藤悦子)

リハビリ

5月末に転倒して右膝の靱帯を損傷し、外出が不自由でしたがようやく痛みが取れ、自己流のリハビリ態勢に入りました。スポーツをやっていないので大きな怪我をした経験がなく、大学院時代に足首を捻挫して以来でした。あの当時は勤め先が決まらず、高校の非常勤を週16時間掛け持ちし、家事にも逐われていて(しかし家族は私が忙しがるのを嫌がるので、朝食後の珈琲を済ませるまではゆっくりしたふりをし、玄関を出たとたんに走るような日々でした)、玄関の前で捻挫したまま4時間授業をして帰ってきたら、高熱が出て震えが止まらず、近所の接骨院で手当てをして貰いましたが、今でも右のくるぶしは変形したままです。それで、専任になった方が楽(当時の都立高校は週14コマがノルマだった)と考えて教採を受け、専任教諭になりました。

子供の頃は裸足で駆け回り、転んで膝の出血が止まらぬほどの怪我もしたのですが、知人から「子供の時の転倒と、大人になって頭が重くなってからの転倒では、怪我が全く違う」と笑われました。医者は「永くかかるよ、3週間安静!」と言っただけだったため、鎮痛剤を避け、小さな椅子に座って(つまり膝を曲げたまま)仕事をしながら安静にした所存でいたのが、永くかかった原因のようです。

未だ正座ができず、重い物を持って永く歩くことや、掴まらずに階段を昇降することができませんが、治る見通しが立ちました。親の家の処分で疲労が溜まっていたのと、2年前から腰痛で使い始めた杖を何とかやめようと焦っていたことが遠因だと、反省しました。お見舞やご心配の言葉を下さった皆様、ありがとうございます。「怪我の高名」にコメントを書いてくれた佐藤孝さんは、あの頃の非常勤先の教え子の1人で、大手通信会社に勤めていたはず。以前、「第三世代の開発をやっています」という手紙をくれたのですが、無知な私が、第三世代って何かと訊いたので呆れたらしく、しばらく音信不通になっていたのでした。

田村伝承

佐々木紀一さんの論文「田村利仁伝承と鹿島神の縁起」(「国語國文」5月号)を読みました。室町物語の『田村草子』、『鈴鹿草子』、奥浄瑠璃『田村三代記』などの構成要素を多様な資料の中に求め、室町時代には田村利仁伝承が鹿島縁起と交錯していたと予測しています。佐々木さんの資料博捜にはいつも舌を巻くばかりで、それらが同一線上に扱ってもいいものなのか、判別しかねて見守るだけ、という場合も少なくありません。おまけに、勤務先の雑誌数種に毎年寄稿しているのですが、その中には国会図書館にすら所蔵されていないものもあって、入手するのに苦労します。

ぜひ、単著として刊行して下さい。平家物語で1冊、周辺の資料探索でもう1冊(中世の豊穣かつ奇怪な伝承世界が展開されるでしょう)で出せるくらいの量はもう貯まっていると思います。出そうという版元もあるはず。なお仮名遣いは、現代仮名遣いにして下さいね。

読みから始まる

原田敦史さんの論文を3本読みました。

平家物語富士川合戦譚考(「国語と国文学」8月号)

延慶本『平家物語』壇浦合戦二題(「岐阜大学国語国文学」41 H28/3)

四類本『保元物語』論(「岐阜大学国語国文学」42 H29/3)

3本に共通するのは、自らの眼で読み抜いた作品の基本構想、それに矛盾する要素あるいはそれを強化する改編をとらえることを、作業の中心に据える方法です。しかもその読みのみずみずしさと緻密さは、以前よりいっそう、水準を上げてきた観があります。富士川合戦譚考は昨夏の軍記・語り物研究会で発表されたものですが、頼朝挙兵記事が平家物語本来のもので、語り本はそれを大胆にカットしたのだという成立論にまで踏み込もうとしています。今後、議論が交わされることを待望します。

昨春の論文は、延慶本の壇浦合戦記事中、教経が大童になる記述と遠矢記事とに注目して、延慶本は、義経との対決にこだわる知盛の最期を以て壇浦合戦を閉じる構想を明確化しようとしたのだというもの。やや舌足らずな観はありますが、延慶本の構想を独立させて読もうとする試みは貴重です。古態、原態の問題意識でのみ読まれがちな延慶本もまた、読み本系祖本から分岐して特化してきた履歴をもつはずだからです。

保元物語』の論文は、四類本(金刀比羅本・宝徳本)では暴れん坊源為朝の造型が、保元の乱においては一旦勝者となる兄義朝に対峙して、一族の枠を踏み越えず、新院の権威の下で戦う武士像として整理されていくことに注目し、保元物語の構想と流動展開に向けて立論しています。私もかつて、一類本(半井本)の為朝は「一族の中に己れの位置を収めきれずに挫折するヒーローであり、骨肉の葛藤を描く保元物語のまさしき主人公であった」と論じたことがあった(『軍記物語論究』1-3)ので、興味ふかく読みました。保元物語平治物語は現在、作品論が停滞していると思われるので、議論が盛んになることを期待します。

諸本比較や史料紹介だけでは軍記物語研究は文学らしくなりません。自らの読みに賭けて、そこから大きな問題へ向かっていける胆力と命中力とを養いたいと思います。心は剛に、矢は精兵で。

 

古筆切研究

小島孝之さんの論文2本を読みました。

新出田中親美氏旧蔵「藤原定家筆書状案」の紹介と考察(「成城文芸」240)

古筆切拾塵抄・続(九)―入札目録の写真から―(「成城国文学」33)

前者の切は個人蔵。定家が建暦元年9月22日、叙位任官の拝賀について新蔵人家資に連絡した手紙の控えに、後日、津守経国から依頼されていた住吉社への奉納歌をメモしたものであることを解明した上で、附属書類や野村美術館蔵の写しについても考察しています。単なる資料紹介に留まらず、丁寧な追跡・考証が味わえます。

後者は、過去の入札目録類から、他に紹介されていないものを中心に写真転載と翻字をしており、彼がずっと連続して行っている作業です。あまり学問的とはいえないように思われそうですが、古筆切の厖大なデータベースを構築しようとしてこつこつやっているのらしい。大学の演習でも多様なジャンルの古筆切をとりあげていたようです。同じく文学を専攻しても、こういう、コレクションに情熱を注げる人と私とは、つくづく性格が違うんだなあと、妙な感服のしかたをしています。畏友というのでしょうか。