史実と人物造型

清水由美子さんの「『保元物語』の流動―平基盛の造型をめぐってー」(「中央大学文学部紀要」 119号)を読みました。基盛は早世した清盛の次男で、語り本平家物語では殆ど抹殺された存在ですが、保元物語では、保元元年7月6日、崇徳院に参上しようとする宇野親治を基盛が召し捕る記事が、乱の発端として置かれています(奈良絵本にもこの記事を独立させた「ちかはる」という作品があり、近世初期には注目される記事だったことが分かります)。

清水さんは保元物語諸本でこの記事の異同を確認した上で、未だ若武者の基盛が何故黒ずくめの合戦装束なのか(通常、黒ずくめは豪傑の造型なのです)に疑問を抱き、白のイメージで描かれる重盛に対して、基盛を従・陰の人物とする狙いがあったと読み解きました。あくまで物語である保元物語の創造する「真実」と、事実との間を探究する姿勢を打ち出した論文です。

清水さんは「『平家物語』における多田行綱―「裏切り者」と言われた男の素顔-」(国文学研究資料館研究成果報告「歴史叙述と文学」)でも、行綱の造型を追い、後白河院近衛家とに密接な関係を持った彼の行動は、九条家側の史料には必ずしも事実通りには書かれていないのではないかとしていますが、こちらはもっと入念な追跡が必要でしょう。『愚管抄』の記事にも風説が紛れ込んでいる、とするなら重大な提言です。『愚管抄』そのものの研究、殊に本文批判から始めて欲しい。畢生の課題になるかもしれませんが。

版本

高木浩明さんの「本文は刊行者によって作られる―要法寺版『沙石集』を糸口にしてー」(「中世文学」62)を読みました。要法寺の日性によって版行された『沙石集』の古活字版2種を比較して、別版のように見える慶長10年版と無刊記版とが、じつは同版の匡郭や版心などを一部替え、本文をも一部分補訂して、同時に刊行準備をしていたものであると推測した論文です。

どうしてそんなことをしたのかは未だ分からないようですが、本文校訂や出版について、現代人からは意外に思われる作業がしばしば行われたこと、近世の出版とは校訂や改編作業を伴うものであったことがよく分かります。実際の写本版本を触らずに諸本論を述べることが如何に危ういかをも、思い知らせてくれます。

ちょうど塩村耕さんの「近世における写本と版本の関係は」(『古典文学の常識を疑う』 勉誠出版)を読んだところでした。版本写本の重層が近世文化の多彩さ、豊かさをもたらしていること、西鶴はまさに出版史の申し子のような作家で、そのことが彼の表現の特色に深く関わっていることを指摘しています。

中世から近世の作品は、メディアリテラシーを考えることに大きなヒントがある、ということを最近痛感しています。

桑の実

街路樹の下の植え込みになぜか1本だけ別種の木が枝を伸ばしていることがよくあります。たいていは桑の木(たまにそよごの木)です。桑畑が見かけられなくなった東京でも、鳥が落として生える種子は桑の実なのでしょうか。意外に桑の木(それも種類が何種かあるらしい)があちこちにあります。

お茶の水橋のたもとに土手から橋の欄干まで届く木が1本あって、6月頃、びっしり赤や黒の実をつけ、永いこと何の木だろうと思っていましたが、桑でした。福岡の農村育ちの祖母が(あたり一面は桑畑で、毎朝養蚕用の桑の葉を摘んで背負ってくるのは子供の役目だったそうです)、子供の頃はおやつ代わりに桑の実を食べて口の周りが真っ黒になり、親から叱られた話をしてくれたことがありました。我が家の近所の並木の下にも生えているのを見つけ、熟すのを待ちかねて食べてみましたが、小さすぎて1個では味が分かりませんでした。その後、巴里で、木莓などと一緒にどっさり紙袋に入れて売っているのを見つけ、友人と公園で食べたりもしました。

鈴木三重吉に「桑の実」という小説があります。何も起こらない小説ですが、大正から昭和初期の雰囲気をよく表わしているような気がします。お茶の水橋のあの木は、どうなったでしょうか。時々通るのに、この頃は見るのを忘れています。

文学散歩

信濃から上京した友人姉弟に、近所の文学遺跡を御案内すると言ったのはよかったが、地元の近代文学関係の旧跡のことなど何も知りません。泥縄でイラストマップを買い、にわか勉強。地元の者は、あそこでしくじって叱られた、ここでは◯◯が手に入る、といった情報で地誌が形成されているので、明治から昭和くらいの歴史には、とんと疎いのです。

とりあえず赤門から一葉の住居跡法真寺、落第横丁、初めてお寺がマンション経営に乗り出したというので有名になった喜福寺、徳川ゆかりの長泉寺、菊富士ホテル跡を歩き、金魚坂で一服したらもう時間がなくなってしまいました。菊坂を下り、伊勢屋の土蔵の前を通って西片町へ出て、お別れしました。私の怪我のせいで早く歩けなかったり、東大の売店で待たされたりしたこともありましたが、時間不足だけでなく文学遺跡というほどのものは殆ど何も残っていないのです。文学者が集った喫茶店白十字も、大学紛争時代に無くなりました。下宿街にはマンションが林立し、旧家の土地は2~3軒に分割されて建て直しが進みました。古い町がかすかに面影を残しながら変わってゆく、その雰囲気を感じて貰うしかありませんでした。

 

奨学基金平成29年度選考

ここ15年来関わっている(選考委員ではありませんが)奨学基金の、今年度選考が終わりました。これから採択者には在籍する大学経由で通知が行き、本人の意志を確認した上で決定します。選考では修士課程4名・博士課程6名の計10名が採択されました。この基金の事業報告は官報に掲載されます。

訂正:選考結果の人名などは官報には載りません。事業報告に関する数値のみです。

運営委員会ではOBの活躍を示す『鴎外の漢詩と軍医・横川唐陽』(佐藤裕亮著 論創社)、『障害者の就労支援のあり方についての研究』(中尾文香著 風間書房)、『探求環境問題解決の道―人と自然和諧共存』(総合地球環境学研究所・中国環境問題研究基地編 同済大学出版社)等の本も御披露され、委員の先生方は興深げに手に取っていらっしゃいました。

この基金は、品行方正・成績優秀かつ勉学の意欲に富んだ大学院生でありながら、経済的理由により修学困難な者に対して奨学援助を行い、幅広い教養と倫理観をもった、人間性豊かな、将来の日本に役立つ人材を育成することを目的としています。

採択に当たっては、経済的状況のみならず、修学意欲・研究の将来性・実績等が総合的に審査されます。採択後、各年度の継続審査に於いても同様です。

来年度以降の募集についてのお問い合わせは

三菱UFJ信託銀行リテール受託業務部公益信託課 公益信託松尾金藏記念奨学基金事務局 0120-622372 まで。

なお受給した方々の有志で作る同窓会「明翔会」があります。公開研究報告会の開催、ニューズレターの発行などを行っています。こちらのお問い合わせは

土屋悠子 meisyokai@gmail.com まで。

 

見果てぬ夢

三角洋一さんの遺稿集『中世文学の達成―和漢混淆文の成立を中心に-』(若草書房)を読んでいます。殆どが講演録や講義ノートをもとにしているので分かりやすく、硬い本ではありません。しかし、壮大な課題に、背伸びせず自前の言葉で取り組んでいく、いわば最も精力と胆力の要る仕事になっています。

和漢混淆文の歴史をたどって物語史を構築しようとする企図は、放送大学の仕事を御一緒した時に聞かされました。校正をした愛妻の美冬さんも版元も、本書に覚一本平家物語の文体論が入っていないことを残念がるのですが、じつはあの時、三角さんの構想に「軍記物語ではそうはいかないよ」と水を差したのは私です。なぜなら、軍記物語では平仮名交じり、片仮名交じり、変体漢文(真字本)は伝本により自在に入れ替わるからです、必ずしも年代順ではなく。もしも三角さんが軍記物語については棚上げしたのであれば、その責任の一端は私にもあるのかもしれません。

未だ自分では晩年だとは思っていなかった三角さんの、終生の大作の第一次コンテともいうべき本書をめくりながら、私にもかつての夢がよみがえってきました。中古の物語史をたどって中世文学史へ、そして日本文学史をめざして考察を積んでいきたい・・・そう思って準備をしていた頃のことが勃然と、机の向こうに浮かび上がってきたのです。宇治十帖にすでに中世は始まっている、そう書いた頃に戻りたい―間に合うならば。

鴨東通信101

きっと待たされるだろうと、ツンドクの山の中から抜き出した小冊子を持って銀行へ出かけました。拾い読みしているうちに視線が止まりました―「特定の理論体系に史料を〈埋め込む〉姿勢」、「あたらしい理論ないし巧妙なレトリックで古典テクスト理解に新機軸をもたらさんとするも、丁寧なテクスト自体の精査を蔑ろにし、結果、古典をもてあそぶに終始する研究者が存在する一方、逆に史料主義を偏重するあまり袋小路に入ったまま出てこられず、また這い出ようとする努力の必要性すらまったく意識せず、相も変わらず定型的な研究に従事する研究者」云々。えっ、どの分野のこと?タイトルを見直したら、竹村英二さんの「日本思想史研究の国際化のために」という小文でした。

竹村さん御自身のお仕事をじっくり読んだことはないので、引用するのは気が引けたのですが、ちょうど「文学研究の再構築」というコンセプトの原稿を書いている最中で、他人ごととは思えませんでした。

小冊子は「鴨東通信」101号。「鴨東」を「おうとう」と読むのは分かっているのですが、つい「かもとう」と読んでしまい、思文閣の人から嫌がられたことがありました。「鴨」という字のインパクトのつよさです。