鴉を飼う

4月21日の本欄「鴉」を読んだ多ヶ谷有子さんから、メールを頂きました。心温まる内容ですので、ご紹介することにしました。

 

かつては烏は苦手な鳥でした。ところが、35年以上前でしょうか。生物の先生をしている主人のところに、生徒たちが瀕死の烏を連れてきたのです。体育館の裏の水たまりであえいでいたらしい。おそらく死ぬかもしれないけれど、死ぬまでは見守ってやろう、ついでに、死ぬ前にお医者さんに診てもらってやろうと、段ボールに入れて動物病院に連れて行きました。お医者さんは「鳩は診たことがあるけど烏は初めて」と言いながら診てくださって、「釣りをする人の錘か何かを飲み込んだ鉛中毒か水銀中毒でしょう。特効薬はないけれど」と、お薬を下さいました。栄養剤の類だったようです。そして「飼いたくて引き取ったのではないでしょう」とおっしゃって、診療代を請求なさいませんでした。 

家に戻って薬を飲ませようとしましたが、瀕死の重傷ながら暴れました。何とか飲ませたところ、気分はよくなったようです。次の日には落ち着いていました。烏は賢いと聞いていましたがその通りで、以後は薬をおとなしく飲みました。当時3歳だった息子より賢いとびっくりしました。というわけで、なんと生き延びてしまいました。ただ、中毒の後遺症で足が麻痺して、飛べなくなりました。鳥は、爪で地面を掴んで、飛び上がる力がないと、羽でバタバタしても飛び立てないのだそうです。仕方がないので飼うことになりました。庭にケージを作ってドッグフードを餌にやりました。卵焼きやエビのしっぽは見るからうれしそうに食べました。 

こうして烏の「クーちゃん」はその後7年生きました。頭の良いことは折々にわかり、たいしたものだと思いました。もともと野生の生き物なので人には慣れませんでしたが、数年たつと、哲人のようなまなざしで空を見ていました。 

そして、昨年です。主人の目の前に烏の雛が落ちてきました。家に連れ帰り、2か月ほど飼ったところ、一人前になって飛び立ちました。いま、二代目クーちゃんは、ご近所の大地主さんの庭木に巣作りをし、時々我が家の近くまで飛んできて、「クー」と鳴きます。

我が家にはもう一羽、尾長がいます。これは大雨の日に青梅街道のケヤキの巣から落ちてきた雛を、娘が連れてきたのです。やっと自然に帰れそうなので、今、時機を見計らっています。(多ヶ谷有子)

 

かつて長谷川町子の「サザエさん」にこんな漫画がありました。ご近所の小父さんが、「なついていた鴉に逃げられました。芸も仕込んでありましたのに」と言って泣いている。数日後、庭木に止まった鴉を見てサザエさんが、「あれだわ」と吃驚している。鴉は梢で、火のついた煙草をくわえ、新聞を広げていました。

源平の人々に出会う旅 第5回「木津川・以仁王の最期」

 三井寺を脱出した高倉宮以仁王は南都へ向かいます。途中、平等院で、追ってきた平家軍と激戦になり、三井寺法師が活躍(橋合戦)しますが、平家方の足利又太郎が馬筏で宇治川を渡り、源氏軍は総崩れとなります。頼政父子は自害、以仁王は南都を目指します。

【井手の玉川】
 玉水駅から南都方面へ向かう途中、歌枕で知られる井手の玉川があります。『源平盛衰記』にも以仁王が「井手ノ渡ト云所マデ延サセ給ヒケリ」とあり、この川が「水なし川」と呼ばれていたことが記されています。以仁王はわずかな従者を従えて、この川を越えたのです。

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【高倉神社・以仁王陵墓】
 井手の玉川の先には、以仁王を祀る高倉神社と陵墓があります。以仁王は光明山の鳥居の前で流れ矢に当たり落命しました。光明山は高倉神社の東南に位置し、綺原(かんばら)神社の脇を流れる天神川沿いの山で、光明山寺がありました。以仁王が通ったと考えられる奈良街道沿いに、山麓の鳥居(当時は神仏習合)があったのでしょう。高倉神社の近くにある阿弥陀寺は、以仁王の死後に仏事を営み、山号を高倉山に改名したと伝わります。

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【筒井浄妙塚】
 高倉神社の近くに浄妙塚があります。三井寺の筒井浄妙明秀は、橋桁が外された宇治橋を走り回り大勢の敵を倒します。橋上で一来法師が明秀の肩に手を置いて飛び越える有名な場面は、江戸時代の絵画資料にもよく描かれています。明秀は生き延び、この戦いで負った63ヶ所の傷を治療して奈良方面へ向かったとされます。

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【旦椋(あさくら)神社】
 もとは冑神社と呼ばれ、以仁王の冑を祀っていたと伝わります。少し離れた場所に「高倉宮冑之社」碑が建っています。

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〈交通〉JR奈良線玉水駅・長池駅
             (伊藤悦子)

牡丹

鳥取と島根の間に中海という汽水湖があり、その中に大根島という小さな島があります。牡丹苗の産地で有名で、全国に出荷していますが、かつては女性の行商が主戦力でした。32年前、鳥取に赴任が決まってすぐ、NHKのTVドキュメント(「新日本紀行」だったか)で、牡丹苗を売り歩く女性が取り上げられました。夫が栽培した苗を妻の行く先々に送り、妻は1年の殆どを行商に歩くそうです。その番組に、新宿辺りのビルの1室で、スーツ姿の営業マンたちを相手に、姉さん被りのおばさんが飛び込みセールスの極意を伝授する場面がありました。庭のある、そこそこ何か植えられているがきっちり造園されてはいない家へ入って声をかける、苗の育て方や牡丹の特性を十分説明する、というようなことを話していました。多分、保険会社だったと思いますが、人事担当者が目をつけて、社員教育の中に組み込んだらしい。需要の有無を見抜くこと、商品の特徴を丁寧に説明すること、そして方言まじりの訥弁が信頼感を呼ぶこと・・・画面の意外さとは逆によく納得できる内容で、感心しました。

鳥取在任中のGWに、同僚の車で大根島へ連れて行って貰いました。島一面の牡丹畑。見事な大輪が種類もさまざま咲き誇っていました。ただ牡丹はどれもが香りがよいわけではなく、主として視覚で楽しむもののようです。観るなら朝早くがよい。日が昇ると花弁がゆるんでしまうからです。

鯉のぼり

鯉幟を見ることが少なくなりました。以前はマンションのベランダから差し出した幟なども見かけたものですが・・・この時季は案外風が強く(薫風といいます)、はたはたと鳴る幟の音は、初夏を呼び寄せる気がします。

弟は団塊世代でしたが、生まれた時は未だ戦後の物資不足の時代だったので、初節句の鯉幟は父の手作りでした。進駐軍払い下げの落下傘用の布地(ブロード木綿だったかリンネルだったか、畳んで持つと随分重かった)にクレパスで眼や鱗を描き、アイロンをかけて色を定着させました。巨大な真鯉と緋鯉の2匹だったことを憶えています。戦後復興が進むにつれ、子供の日にも誕生日にも、弟の方がいつも豪華なプレゼントを貰うように見えて、羨ましく思っていました。

その弟も、18歳で潰瘍性大腸炎を発症し(当時は殆ど初症例で、治療法も手探りでした)、50代で亡くなりました。看取った年、我が家では白と薄紫のビオラが異常なほど花つきがよく、大きな鉢が花手鞠のようになりました。園芸の好きだった弟からの、あの年限りのメッセージだった、と思うことにしています。

保元と平治

阿部亮太さんの「認識としての「保元・平治」―物語は院政期の動乱をいかに捉え直すか-」(「国語と国文学」4月号)を読みました。保元物語平治物語平家物語の3作品が、保元の乱平治の乱を一括して捉え、「保元・平治」という呼称と認識の型を定着させた初めての歴史文学であり、過去の動乱を新しい観点から見直そうとしていて、後代に大きな影響を与えたと説いています。視野の大きなテーマに取り組んでいる点において、近時の院生論文には珍しく、今後に期待させるところがあります。

ただ、軍記3作品の両動乱に関する情報源が同一であるという推測は飛躍しすぎです。否、この論文は素材論や作者捜しとは別途であるが故に意義がある、と私は考えます。中世人たちの歴史認識とはどのように形成され、どれだけ相互に影響し合ったのか、広い領域に亘って見ていく過程で、何かが判ってくる、というものではないでしょうか。

保暦間記を取り上げていないのは何故でしょうか。芸能の世界でははやくから壇ノ浦の平家滅亡を元暦元年とするのは何故か、「治承物語」は果たして平家物語なのか等々、これから巨大な難問にぶつかっていくことになるので、基礎堅めをしっかりと、自分の論の目的を見失わないように続けて欲しいと思いました。

しらす

銀行へ行った帰りにスパゲティの昼食を摂りました。季節限定で「しらすと春キャベツ」というメニューがあったので、どうかなあと思いながら注文してみました。釜揚げしらすがたっぷり乗せられ、小綺麗に盛りつけてあって、チーズ味のソースが意外に合う。春らしく、胃にやさしい、一皿でした。

幼年時代、湘南の茅ヶ崎で育ちました。沖に烏帽子岩が見え、砂鉄の多い、黒い砂の浜です。相模湾は、汀は長いがすぐ深くなり、波がけっこう荒い。波打ち際に立っていても引き波で足元から砂が崩れ、毎年子供が波にさらわれるような浜でした。サーフィンが流行り、サザンオールスターズがロマンチックな夕陽を歌うのは、ずっと後年になってから。未だ戦時中のトーチカが残り、松林は松根油の採取のために大半が伐採され、10cmくらいの小松が植林されたばかりでした。近くの市立中学校は、強風の日には砂嵐のため休校になりました。

日曜日には浜で、地曳き網を子供たちにも曳かせてくれるというので、2時間くらいかかってようやく曳き揚げると、細かなしらすが一杯入っているだけで、ほかには鰈が1枚。玄界灘で育った我が家の大人たちはそれ以来、この海はしらすしか獲れない海だ、と小馬鹿にしていたふうがあります。干して作ったたたみいわしは、安くて簡便なので、弁当の定番でした。

今やそのしらすが名物になり、駅弁にもなり、わざわざしらす料理を食べに行く人たちもいるらしい。隔世の感があります。

QWL

明翔会会員の中尾文香さんに最近の活動を書いて貰いました。テミルプロジェクトについてはすでにこのブログでも紹介しました(株式会社テミルのHPはwww.temil.jp)。 彼女の新著『障害者への就労支援のあり方についての研究』に関するお問い合わせは、風間書房(電話03-3291-5729)まで。

【障害者のQWL】   中尾文香

私は7年間、福祉事業所(施設)で働く障害者の働き甲斐と賃金を高めることを目的とした「テミルプロジェクト」に関わっている。テミルプロジェクトは、百貨店等で販売できるような質の高い商品をつくるために、プロのパティシエがレシピ提供・製菓指導をし、絵本作家やデザイナーがパッケージの絵を担当、それを、手づくりという事業所の強みを活かして1つ1つ丁寧につくるといった仕組みである。

事業所がつくる焼き菓子は全てオリジナルにこだわった。それは、障害者や職員が自分たちの商品と思い、愛着を持ってほしかったこと、その商品を「おいしい」とお客様に言ってもらえた時に働き甲斐や働く喜びを感じてほしかったからである。

これは、私が研究していたQWL(Quality of Working Life)につながる。QWLには、適切な労働条件(安心安全な環境、給与等)、家族も含めた社会保険等の整備のみならず、個人の働き甲斐の醸成や成長、職場仲間との関係、労働以外の生活とのバランスも含まれる。つまり、労働の豊かさとは、給料や待遇といったことだけでなく、そこでどのような仕事がなされているかという質、レジャーや家族のことも関係している。

私が特に注目したいのは、「個々の働き甲斐」である。人は、社会の中で自分の役割を認識でき、他者の役に立ったり、他者から「ありがとう」と言われたりすることが、生きる上での大きな活力になる社会的動物である。これは障害があろうとなかろうと変わらない。しかし、資本主義経済において人を単一的な「効率」というものさしで捉えてきた結果、障害者は社会的に排除され、QWLを高める機会が奪われてきたという事実がある。私たちソーシャルワーカーの就労分野における仕事は、働く権利の回復に向けた、労働環境の整備であると考えている。