炊き込み御飯

子供の頃、季節ごとの炊き込み御飯が食卓に上りました。今の季節ならグリンピースを混ぜた塩味の豆御飯。醤油味の竹の子飯。秋なら菊の花びらを混ぜて酢飯にした御飯。松茸御飯は醤油味で栗御飯は塩味。銀杏に鶏(または油揚げ)や干椎茸や人参を入れた五目飯もあります。どこの家でもそうするものだと思っていましたが、違うらしい。隣家から、故郷の味だからと、ひじきや枝豆など種々炊き込んだ御飯を頂いたこともありました。新潟のご出身だったと思います。

草餅にするには伸びすぎた蓬の柔らかい芯を、刻んでお粥に混ぜると美味しい。鶏の挽肉か白身の魚を足すと滋養食になります。

名古屋に住んでいた頃、茶の木を生垣にしたお屋敷があって、あまりに新芽が美しいので小枝を失敬して帰り、コップに挿しておいたところ、台所が芳香でいっぱいになりました。しかし翌朝、香りは失せ、お粥に混ぜてみましたが目に綺麗なだけでした。

燕子花図屏風

根津美術館で恒例の尾形光琳「燕子花(かきつばた)図屏風」展示を観て来ました。いつもより混んでいましたが、「行楽を楽しむ器ー堤重と重箱」の展示や「初夏の茶の湯」の展示も楽しめました。後者に出ていた独楽香合(17世紀、東南アジア)と片口水指(16~17世紀、ヴェトナム)が素敵で、断捨離実施中の身であることも忘れ、欲しいなあと思ってしまいました。5月14日まで。

池の燕子花は今年は開花が遅れているそうで、庭園には新緑に眩しい日差しが輝いていました。同年の友人と共にカフェでショートケーキを注文して(若者連れの時はもっと大人のケーキを選ぶのですが)、仕事の打ち合わせを兼ねて老後生活の話をして帰りました。若葉の美しい赤坂御所や豊川稲荷の脇をバスで通り、赤坂見附の駅へ降りようとしたら、未だ学生気分が抜けないのか、あちこちに道をふさいでお喋りしている新入社員の群れがいました。

現代詩

渡邊十絲子さんの『今を生きるための現代詩』(講談社 現代新書)をようやく読み了えました。読みにくい本だというわけではありません。その逆なのですが、本屋で見かけて買ってからベッドサイドに置き、4年近くかかってしまいました。入試問題を作っていた頃は、夏休みに、未だ出たばかり(つまり、教科書未採用)の、シャープな評論文を物色して読む仕事がありましたが、今は、自分の専門分野の新刊を追っかけてあっぷあっぷしている日々。その日、本屋で衝動買いした本を、一気に読破する生活こそ、定年後の憧れだったのですが・・・

そういうわけで、話題としては古いかもしれませんが、この本自体は古びていない。分かりやすくて鋭い、しかも、生きていく上で必要な「優しさ」に満ちた本です。目次には、現代詩はこわくない、わからなさの価値、たちあらわれる異郷、生を読みかえる、現代詩はおもしろい、等々の見出しが並んでいます。あとがきで著者は、詩とは「世界の手ざわり」を知らしめてくれるものだ、と言っています。「今の自分がまだ気づくことのできない美しい法則が、世界のどこかにかくされてあることを意識するようになる」と。ジャン・ジロドゥに、演劇とは、見終わって劇場を出て行く人々が、前よりこの世界をもっとよく理解できるようになり、街の並木が、灯りが、吹きぬける風がいとおしくなるものだ、という意味の言葉があったのを思い出します。文学に何ができるか、を端的に言い表した言葉ではないでしょうか。

殊に現代国語を教える教員の方々には必読の書。教室で詩の「読解」の正答を示すことに疑問を持ったことはありませんか?著者がかつて生徒として感じた疑問は、今も再生産され続けているのでしょうか。

八重桜

長泉寺・法真寺・赤門脇と、種類の違う八重桜を見て歩きました。赤門脇には2本あったのですが、いつの間にか1本は切り株になってしまいました。ベンチに座っていると、ちょうど楠の葉の交代期で、落葉が肩に当たって、かるく痛い。行き交う老若を眺めながらヨーグルトを1本食べて、帰って来ました。

風に乗った桜の花びらが流れて行くのを見ていると、とくべつな時間の流れを感じます。三好達治に「あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ・・・」で始まる、「甃のうへ」という有名な詩があります。この、とくべつな時間を感じさせる詩です。天平の都のイメージでもありましょうか。学生時代に「あれは護国寺の桜を歌った詩だ、だから登場する女性はお茶大生だ」と言った教師がいましたが(「あの詩の優雅さに引き替え、現代の学生ときたら・・・」と続きそうな口ぶりだったので、みんな無視しました)、何か根拠があるのでしょうか。当時、護国寺には八重桜の若木の並木があったのですが、昨春、観に行ったら見当たらない。すでに老木となったみごとな八重桜たちは、1本ずつ木立の中に移植されていたのでした。

50年前には、護国寺の杜で時鳥の鳴くのが茗荷谷あたりでも聞こえました。よく晴れた日には遠く筑波山が見えることもありました。

                護国寺の八重桜(2016伊藤悦子撮影)f:id:mamedlit:20170417145731j:plain

鎌倉歩き

日本史の坂井孝一さんから、「NHK総合テレビ4月21日(金曜日)午後8時から放送の『歴史秘話ヒストリア』に少しだけ出演することになりました(全体で43分ほどの放送時間のうち、私が出演する「鎌倉」の部は13分ほど、再現ドラマやアナ単独の部分などを入れて編集しますから、私が画面に映るのはせいぜい2~3分程度です)。」というメールが来ました。3月3日にロケをし、井上あさひアナと鶴岡八幡宮や永福寺跡の史跡などを見て歩きながら、鎌倉の知られざる見どころや歴史について話し、NGも出したし、ロケバスというものにも乗ったし、とにかくいい経験だった、とのことです。この回のコンセプトは、GW前に有名な観光スポットの知られざる見どころや歴史を紹介するというもので、伊勢・鎌倉・富士山の3箇所を取り上げるのだそうです。

出演のきっかけは、坂井さんの著書『源頼朝と鎌倉』(吉川弘文館)にNHKのプロデューサーが注目したことだそうですが、この本はコンパクトながらよくまとまっていて、楽しい本です。

3月3日のロケなら、梅がやっと咲いているかどうかでしょうね。鎌倉は、色とりどりの木の芽が出る頃から新緑にかけての時季が美しい。禅寺が多いせいか椿のみごとさにも驚きます。

45年前、高校の遠足は鎌倉の六国峠縦走でしたが、昼の弁当も立ったまま食べるようなハードなもので、爾来鎌倉は健脚向き、と敬遠しがちになってしまいました。

それでも家族や友人と何度も行き、初夏の鎌倉文学館の薔薇、萩の咲く常永寺で振る舞われたぼたもち、真夏にゼミの学生を連れて行った永福寺発掘現場など、それぞれに同伴者の記憶と共に思い出します。

後期軍記

山上登志美さんの「八上城落城と本能寺の変―光秀「怨恨説」をめぐってー」(甲南國文64)という論文を読みました。明智光秀がなぜ信長を暗殺したのか、従来信じられてきた丹波国八上城攻めにまつわる「怨恨説」を検証しています。八上城攻めを扱った軍記『信長公記』『信長記』や、敗れた波多野側の『高城記』『籾井家日記』『丹波興廃略記』、さらに近世の『太閤真顕記』異本、『総見記』などをも比較対照しながら、諸資料の先行関係を推定し、本能寺の変の「光秀怨恨説」の成長過程を跡づけています。分かりやすくて、面白い。私たちが何となく信じ込んでいる「歴史秘話」が、じつはある動機によって脚色され、大衆的なメディア(芸能や読み物)によって広められたものであったことを知らされます。矢部健太郎さんが関白秀次の死について、同様の提案をして話題になったのも(『関白秀次の切腹』KADOKAWA)、記憶に新しいところです。

なお本誌は、後期軍記の研究をライフワークにしていた松林靖明さんの追悼号です。後期軍記は実録的で地域性が強く、数が多い(しかも異名同本が多い)ため、研究が遅れていた分野です。しかし平家物語や保元平治物語とは異なる、軍記物語の成立動機や文芸的方法のあり方についての重要な情報を抱え込んでいる、宝の山でもあります。梶原正昭―松林靖明と承け継がれてきた研究の後継者が立派に育っていることに、松林さんも満足されているのではないでしょうか。

春のエネルギー

野菜の、立派な不要部分をどうするか―何だか可哀想で捨てられない。セロリの大きな葉や枝は、煮込み料理のブーケにもしますが、刻んで炒め、醤油と少量の甘味(味醂か砂糖)と唐辛子で味付けすると、白飯にも酒肴にも合う一皿になります。油揚げか竹輪または蒲鉾を千切りにして一緒に炒めれば、もう少し格上のおかずに。ラディシュの葉でも代用できます。こちらはセロリほど香りがきつくないので、削り節と醤油だけで胡麻油で炒めても可。

ブロッコリーの茎は茹でて醤油漬にします(一昼夜で食べられますが、ゆっくり漬けたければ酒で薄めます)。その後の醤油には蕪、胡瓜、長芋などを漬けます(だんだん野菜から水が出ますが、2~3回は漬けられます)。今日は山独活を漬けてみました。

山独活の頭は天麩羅にすると美味しいそうですが、我が家は揚げ物を避けているので、芯(剛毛のない部分)は刻んでスープの浮き実にしました。広がり始めた葉は、活けると案外面白い形になります。ただ、もともと山野の植物なので、花屋の華麗な切り花には合いません。我が家では今、ジャムの小瓶に、路傍で摘んできたホトケノザと一緒に入れて、置いてあります。春のエネルギーが集結した一角になりました。