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それでも生きていく

渡部泰明さんの『中世和歌史論 様式と方法』(岩波書店)という本が出ました。前著『中世和歌の生成』(若草書房)が藤原俊成中心だったのに比べ、書名通り、古代和歌から中世和歌へ、西行・定家・実朝の作歌方法、そして芸能や連歌への展開をも視野に入れて論じています。鍵語は「縁語的思考」。「あらかじめ言葉の意味・イメージの総和を胸底に秘め、そこから言葉の縁によって自在に引き出す」言葉の使い方を縁語的思考と名づけ、そこに焦点を定めて中世和歌の創作過程を説き明かそうというのです。

重要な素材をあえて表現しないのが定家固有の方法であるとの指摘も、すでに言われていることではありますが、印象に残りました。あとがきにある「和歌はなぜ続いたのか」という問いは、最近の和歌文学界共通の命題なのかもしれませんが、答えは複数語られていいものだと思います。

またあとがきからは、痛切な衝撃、人生の痛手を負ったとき、文学によって「それでも生きていく」という力を与えられた体験がほのめかされ、私個人の体験からもつよく共感できるものでした(このテーマについては、今年1月の東京学芸大学におけるシンポジウムで、すこしお話ししました)。

石榴

石榴の新芽が出始めました。貰った実の種子を一粒播いて育てた石榴です。花も楽しめますが、この時季の赤い芽吹きが美しい。

小学校の時、国語の教科書に「一夜のこがらしに、ざくろの葉は散りつくした。」で始まる文章が載っていて、授業で指名されて音読したことを憶えています。おかっぱ頭の女の子が硝子戸を覗いている後ろ姿の挿絵があったので、ずっとそういう主人公だと思い込んでいました。じつは川端康成の「山の音」の出だしであったことを知ったのは、大人になってその小説を通読し、こういう内容だったのか!と驚いた時です。

しかし、幼時の刷り込みは怖ろしいもので、未だに、もう一つの「一夜のこがらしに・・・」で始まる、寂しげな少女を主人公にした作品があるような気がしてなりません。教科書の功罪、と言っては大げさでしょうが。

汀と渚

北村昌幸さんの「『平家物語』の汀渚―敦盛最期の舞台―」(『浜辺の文学史』三弥井書店)という文章を読みました。一ノ谷合戦の後、熊谷直実平敦盛を討ち取る場面の平家物語諸本、芸能、絵画などを見渡して、勝者と敗者、源氏と平氏等の2項対立を明確にする汀線について考察しています。

覚一本平家物語は、意味内容に幅のある「渚」でなく、「際」の響きを含む「汀」という語を使って、つわものたちの運命を分かつ、ぎりぎりの境界を印象づけているという指摘は面白いと思いました。汀は「水際」から生まれた語ですが、渚の語源には定説がなく、「波」と関係があると考えられているようです(思いつきですが、「凪ぐ」という動詞と接尾語の「さ」とに関連させては考えられないでしょうか)。

この本は「◯◯の文学史」というシリーズの1冊として、一般読者にも古典の面白さを伝えるエッセイを集めており、紙数や方法に制約があったのでしょうが、語誌の検討はもう少し突っ込んでみる必要がありそうです。

 

ヒューストン

かつての教え子が小学生の娘を連れて、アメリカの宇宙センターを見学してきたからと、パンフレットを送って来ました。フロリダ州ケネディ宇宙センターテキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センターを、1週間かけて見学するツアーです。ロケットや人工衛星の展示を見るだけでなく、実際に宇宙飛行士トレーニングの体験や、スペースシャトル搭乗疑似体験もできるようです。

初めは子供につられてつきあっていた彼女も、今はすっかり宇宙にはまり、ロケット打ち上げの度に種子島へ出かけているらしい。JAXAもなかなか商売上手で、打ち上げたロケットの破片を抽選で頒布したり、宇宙飛行士OBが説明役を買って出たり、次世代の関心を惹きつけるプログラムに熱心です。

ヒューストンという地名は私達の世代にも何かわくわく感を呼び起こします。人間が乗り組んだ人工衛星の発射、月への着陸等々、若かった頃の冒険心をつつかれた記憶が蘇ります。ただ現在のアメリカによる宇宙開発は、そこここに軍事目的との関連が透けて見えて、やむを得ないとはいえかすかな寒気も感じざるを得ません。

将来リケジョを目指す娘と、その母親が一緒になってロケット発射の秒読みに参加している姿を想像するとほほえましい。彼女の31年前の卒論は、方丈記でしたが・・・

咲きました

実生の桜が咲きました!花房は5つ、いま9輪開いています。染井吉野なら蕾の時からピンク色になるので、今年も駄目かと力を落としていたのですが、緑の萼の中から覗いた蕾が次第に薄紅を帯びた白に変わり、ふっくらと開きました。大島桜だと思います。

2月6日の本欄で「咲かない桜を待ち続けている」と書いたので、木は「咲かぬと鋏でちょん切るぞ」と言われたような気になったのかも知れません。ネットで調べると、実生の桜をベランダで育てて一喜一憂している方は案外多いのですね。やはり日本人にとって桜は特別なのでしょうか。

昨日、寄居町まで往復する間にたくさんの桜を見ました。並木になっているものもありましたが、野中に、あるいは里山に1本だけ満開の花の天蓋を捧げているものもあちこちにありました。染井吉野は実生では生えないとすれば、いつか、誰かが植えて大きくなったのでしょう。桜は誰しもそれぞれに、「さまざまのこと思い出す」木なのです。

この鉢の桜も「咲いたら、1品持ち寄りで我が家で花見をしよう」と言っていたのですが、従妹は癌で亡くなり、友人は郷里へ帰りました。歳々年々人同じからず―来年の花を見られるかどうかの保証はありません。せめて今夜は、従妹の好きだった酒に燗をつけようと思います。

寄居町

従妹の納骨に埼玉県の寄居(よりい)町のお寺まで出かけました。北条氏の城、鉢形城趾の中を抜けて行きます。桜、花桃、連翹、杏、雪柳、菜の花、花大根、色とりどりの花が咲き乱れ、鶯が鳴き、人影の殆どない、静かな所でした。

同い年でしたが癌が見つかってから3ヶ月、あっという間に逝ってしまいました。未だどこかにいるような気がしていたのですが、納骨が済み、立ち去りながら振り返った時、初めて涙が出ました。

女ばかり5人姉妹の真中に生まれ、恋愛結婚で福岡から東京へ嫁ぎ、子供2人を育て、孫もでき、現役の腕利き営業ウーマンのまま亡くなりました。苦労もあったに違いありませんが、なすべきことはなし終えたと安心して、先へ逝ってしまうなんて、ずるい・・・と言いたくなります。老少不定、無常迅速―年齢順に死ぬとは限らない、死は人が思っているよりずっと速く追っかけてくる。中世以来言われ続けて来たことですが、改めて身近に感じます。

テミル・プロジェクト

株式会社テミルの中尾文香さんが、『障害者への就労支援のあり方についての研究』(風間書房)という本を持って訪ねてきました。明翔会会員の1人です。テミルで働きながら社会福祉の大学院を出て、障害者の労働環境向上のプロジェクトをやっています。この本は東洋大学に出した博士論文だそうです。若い人らしい、すっきりした装幀の364頁。

彼女は障害者が作った良質なお菓子や小間物に付加価値をつけて、賃金を保証するための活動を続けています。障害者が楽しそうに、ひたむきに働く姿に感動し、ここにこそ働くことの本質がある、と感じたとのことでした。こだわりの強い障害者ならではの仕事を見つけ、環境を整えていく仕事には、困難も多いが手応えもあるらしい。現在の社会福祉の抱えるさまざまな話題について、新たな知識をたくさん教えられました。